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地機は、原始織機(経糸を束ねて棒に縛り、一方は織手の腰に固定して緯糸を織り込みます。)に織台と経巻具を付けた 原始織機より効率化を図った織機です。 地機の支柱と脚が直角に組み合わされ、前脚が高く経糸が織り手に向かって傾斜した「傾斜型」と、織台に支柱が垂直に組み立てられ、経糸のみが傾斜した「垂直型」の2つがあります。どちらの操作も片足の屈伸に よって綜絖の上下開口を行い、綜絖が織手より高く経糸が傾斜となって、いざって織った事から「いざり機」と呼ばれるようになりました。山陰地方では、傾斜型が昭和20年代まで使用されていたようです。 藤・楮・麻 等の織物用に江戸末期頃から自家用の織り機として各家庭で使用されていました。しかし、木綿の普及と共に次第に絶えていきます。この地機は、いつ日本に伝来したかは定かではないそうですが、一説によると5世紀頃に絹織物を献上した帰化人によって大阪から養蚕・絹織物・地機を伝えたとされています。現在では、伝統を守る結城紬と大島紬 等で使用しています。
また地機以前の織り機は、機台がなく、筬は一番後ろで経糸の幅と間隔を一定にするために使用されていました。地機は、5世紀ころから日本で使用された手織機で、「いざり機・下(した) 機・神代(じんだい)機」とも呼ばれました。地機では、経巻具(たてまきぐ)を機台に取り付けて後ろを高くし、筬は綜絖の前方に置かれ、緯打ちに使用されます。布巻具を「腰当て」 を使用し、腰の辺りに括り付け、座って織り、経糸はかなり傾斜しています。 日本では、5世紀ごろ中国から伝わった機織技術を、弥生時代からの原始機に機台をつける 等などの改良を行い、 手や腰など体を使って織物を織る「腰機・腰機」から発達し、江戸時代 に越後地方で使われていた「地機」などが開発されました。現在は、結城紬や小千谷縮 など伝統織物にわずかに使用されています。

 結城紬の地機  大島紬の地機