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2)大洲の伊予生糸作り
昭和24年に繭の統制が解けてから各製糸会社は、優良繭の確保について競争しました。当時の南予には、郡是(ぐんぜ)製糸(宇和島市)・鐘渕紡績(八幡浜市) などの大手製糸をはじめ、宇和島市の城南製糸・吉田町の程野製糸・宇和町の酒六(さかろく)・内子町の内子製糸・大洲市の桝田製糸、今岡製糸など多くの営 業製糸があり、優良繭の確保のため養蚕農家を翻ろうする有様でした。特に昭和28年に鐘紡八幡浜工場を酒六が買収した為、鐘紡の地盤争奪をめぐり、農家一軒 一軒を『朝駆(あさが)け、夜駆(よが)け』で訪問し、庭先で直接取引したそうです。
昭和49年6月には、今岡製糸・桝田製糸と喜多養蚕連合会が、大洲市など地元自治体の協力を得て合併し、伊予生糸株式会社が設立。この合併の年は、ちょうど生 糸の一元輸入化(蚕糸事業団による一括輸入)が始まった年でした。
昭和53年3月、伊予生糸は、繭の生産拡大と繭加工施設の整備により生産から加工販売に至る一貫体系を図るため、伊予蚕糸農業協同組合に改組されました。 昭和55年には、農業改善事業の適用を受け、菅田の新工場に繭の集荷加工施設が完成し、操業が始まりました。新工場の対象地域は、大洲市・長浜町・内子町・五十 崎町・肱川町・河辺村の1市5町村であり、受益戸数811戸であった。当時の従業員は46名、加工能力は原料繭、年間400t、生糸生産、年間78,000kgだったそう です。

3)野村のシルク作り
野村町の養蚕は、明治初期に始まりました。傾斜地に広がる畑地は桑畑に適し、収益性の高い養蚕は、急速に普及しました。大正初期には1,138戸が養蚕を行い、 春から秋にかけて米と養蚕を、冬の農閑期には野村町特産の和紙「泉貨紙」を作り生計をたてていました。
この頃、生産した繭は、馬車・人力・肱川を筏で、宇和町や大洲の繭市場へ売りに行きましたが、繭仲買人に買い叩かれる事から養蚕農家の収入は非常に不安定で した。このような養蚕農家の窮状を見かねた有志の呼びかけにより、昭和6年には繭市場・乾繭・倉庫業務を行う為、東宇和郡購買販売組合を創設しました。昭和 8年には製糸工場を建て「野村の繭から野村の糸を」という悲願を達成し、養蚕農家の経営は飛躍的に発展した。恵まれた風土の中で飼育された繭から、町を東西 に貫流する肱川の清らかな水と高度な製糸技術から生産された生糸は野村生糸「カメリア(椿)」の商標で販売され、国の内外で高い評価を得て、野村町の産業経 済の発展に大きく貢献していました。