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注:『えひめの蚕糸』(昭和46年愛媛県発行) 愛媛県の明治35年(1902年)の養蚕農家戸数は、15,846戸、桑園面積2,371 ha、繭生産量575tでしたが、昭和5年(1930年)には、養蚕農家戸数55,846戸、桑園面積14,729 ha、繭生産量11,534 tにのぼり、質量ともに西日本で頭角を現す。しかし、日中戦争から太平洋戦争中は、戦時体制と海外市場の空白、食料不足の影響によって養蚕、 製糸業は減退。第二次世界大戦後の昭和30年代になると、養蚕、製糸業は経済成長に伴って回復に転じ、養蚕技術の改善、合理化により昭和45年には、養蚕戸数6,232戸、 桑園面積2,044ha、繭生産量1,246 tにまで増加。しかし、人造繊維の進出と衣服生活の変化、経済不況や貿易の自由化による経済構造の変化などにより、蚕糸業は衰退 の一途をたどり、平成6年3月から5月にかけて、愛媛県蚕糸農協連の3製糸工場(大洲・野村・広見工場)は、ついに閉鎖しました。 *注:戦前の養蚕生活 大洲地方に養蚕が発達したことは、大洲地方の先覚者の苦労と肱川が関係しています。肱川の岸は、度々の氾濫の繰り返しで大変良く肥えた「タル土」が有り、桑畑に最 適でした。昔は、何事も『お蚕さん』第一で、8畳の座敷に12段の棚の蚕座に蚕箔(さんぱく)=竹・木・ワラで作った飼育の容器=を置いて飼っていました。養蚕は、 種屋(川之石の愛媛蚕種)から蚕の種を買い、掃き立てし、孵化した3ミリほどの毛蚕(けご)を、鳥の羽根で産卵紙から蚕座(さんざ 紙に移して育てる事)から始め ていました。繭の出荷は、繭を繭袋に詰め大かごに入れ、川舟に積んで大洲まで運んでいました。大洲の繭売買所で仲買人がセリにかけ、繭を取り引きをしていたことか ら繭の価格が不安定だったようです。戦後は、菅田の稚蚕(ちさん)=共同飼育所で2齢=掃き立てから約1週間ほど育った蚕=まで育て、配蚕(稚蚕を配る事)し、家 の蚕室で飼育しました。蚕は2齢までの飼育が大切な為、蚕業指導員の指導で蚕の世話をしたそうです。現在は、養蚕農協の稚蚕飼育所から各地区の組合に配蚕されてい ます。また、共同飼育の為の共同桑園が有り、本郷地区にも2反の共同桑園が有りました。 蚕は、昔は母屋の座敷で飼っていました。母屋の蚕室は、座敷は8畳、12段の棚を8列に並べ踏み台で作業をしていました。その後、上簇(じょうぞく)=蚕が十分発育 した時、繭を造らせるため簇(まぶし)とも呼ばれる用具に入れる事=の方法が変化し、広い部屋が必要となりました。昭和40年に鉄骨平屋(約99㎡)を建て、一段の平 飼(ひらがい)=平らな架台で蚕を飼う事=となり飼い易くなりました。 蚕の飼育は、年3回(春蚕(はるさん)、初秋蚕(しょしゅうさん)、晩秋蚕(ばんしゅうさん))の飼育を基本としていたそうです。飼育の温度と乾燥に大変気を使い、 かつては木炭の暖炉を使っていました。飼育温度は、24.5℃が適温で、人間にとっても好適と思う環境条件が一番良いとされていました。養蚕の仕事は、現金収入にはな りましたがこのような生きもの相手に気を遣い、労働時間が長いので苦労が有りました。朝5時には起き、露のあるうちに桑を取って、桑が萎びない様に家に持って帰り、 1日3回桑を与えました。現在は、条桑育(じょうそういく)=桑を枝のままで蚕にあたえて飼育=が一般的ですが、昔は桑の葉を一枚一枚摘み、細かく刻んだ桑を竹龍 の蚕に満遍にムラなく与えたそうです。 |