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伊予生糸について |
伝統的な農林水産物や食品の地理的表示を知的財産として守る「地理的表示保護制度」の運用が6月から始まり、愛媛県内からは西予市蚕糸業振興協議会が同市特産 「伊予生糸(いよいと)」の登録を申請したそうです。農林水産省によると、特定地域で生産され、特性を有する産品が申請対象となり、地域ブランドの品質確保と 模倣品排除が目的で、申請が認められると国の認定マークを使用可能だそうです。海外では100カ国以上が同様制度を運用しているようです。農水相が有識者の意 見聴取を踏まえ、年末をめどに登録の可否を判断するそうです。西予市によると、伊予生糸は嵩高(かさだか)でふんわりとした風合いが特長だそうです。古くから 伊勢神宮や皇室に納められて来ましたが、高齢化で生産者が減り、2014年度の繭生産量は市内6戸で計約1.4トン生産されるそうです。 1)伊予生糸の歩み *伊予生糸作りの始まりと歩み 平安時代の「続日本紀」に「和銅4年6月 元明天皇は、挑取師(あやとりのし 錦綾(にしきあや)を織る事を司った)を諸国に派遣し、初めて錦綾の織法を教習させ た。翌年7月には、伊予国など21力国に命じて初めて錦綾を織らせた。」と記述が有ります。また「延喜式」には、伊予国から朝廷に貢納した調の品目に「綾・帛・ 絹など」が記述されています。 この事から、千数百年前頃から、伊予国で養蚕・製糸・絹織りが行われていたとされています。肱川流域を中心とする「伊予生糸」は、優れた品質によって昭和初期から 皇室御用を初め、伊勢神宮式年遷宮御用の拝命など、全国的に有名になりました。そして、蚕糸業は、明治維新以降、日本の近代化を支える基幹産業として、国内のみ ならず世界を舞台に発展してきました。 注:『えひめの蚕糸』(昭和46年愛媛県発行) 愛媛県の明治35年(1902年)の養蚕農家戸数は、15,846戸、桑園面積2,371 ha、繭生産量575tでしたが、昭和5年(1930年)には、養蚕農家戸数55,846戸、桑園面積14,729 ha、繭生産量11,534 tにのぼり、質量ともに西日本で頭角を現す。しかし、日中戦争から太平洋戦争中は、戦時体制と海外市場の空白、食料不足の影響によって養蚕、 製糸業は減退。第二次世界大戦後の昭和30年代になると、養蚕、製糸業は経済成長に伴って回復に転じ、養蚕技術の改善、合理化により昭和45年には、養蚕戸数6,232戸、 桑園面積2,044ha、繭生産量1,246 tにまで増加。しかし、人造繊維の進出と衣服生活の変化、経済不況や貿易の自由化による経済構造の変化などにより、蚕糸業は衰退 の一途をたどり、平成6年3月から5月にかけて、愛媛県蚕糸農協連の3製糸工場(大洲・野村・広見工場)は、ついに閉鎖 |