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江戸では、武家女性と町方女性の間で衣装が異なり、その違いが小袖でした。小袖は、時代によって慶長小袖・寛文小袖・元禄小袖 等という名で呼ばれていました。 江戸幕府は、倹約令(天和3年(1683年)は、刺繍・総鹿の子絞り・金紗の使用を禁止)を何度か出していますが、町人は派手な衣服を好んでいました。また、従来の伝統的な染めの技法は、布全体を染液に浸す「浸け染め」でしたが、 近世に入り染料が改良され、刷毛で染料を塗る「引き染め」が可能になり、染色の幅が広がりました。江戸時代中期には、京都で「友禅染」の生産が開始されます。友禅染の特色である「糊防染」と「色挿し」は、この様な染料の改良 によって可能となりました。また、小袖や帯など様々な絵画的衣装が現れ、著名な絵師が布面に直接絵筆を用い図柄を描いた小袖もあり、染織技術的には「描絵」というもっとも素朴な技法です。
慶長小袖
慶長の末年から元和・寛永年間(17世紀前半)頃の小袖を慶長小袖と呼びます。「黒・黒紅・赤・白」を主とした渋い色彩が特色で、技法的には刺繍と摺箔が使用されます。桃山時代の「桃山小袖」は、文様を単純な区画に区切る 「片身替り・段替り」等でしたが、慶長小袖は、抽象的で複雑な形に文様を区画する特徴が有ります。
寛文小袖
寛文年間(1661 - 1673年)を中心とした時期の小袖様式で、特色は背面の模様です。当時の小袖雛形本には、「背面右袖から肩の部分を通って左袖へ、および、右袖から下へ伸びて右裾へという形で模様が続き、背面の左下方は 模様が無い配置」と記述されています。「慶長小袖」には武家女性の好みが、「寛文小袖」には新興の町人階級の好みがそれぞれ反映されています。そして地合いは、桃山時代に盛行した練貫地から綸子地が多く使用されるよう になります。
友禅染
以前の染物は、布自体を染料の液に漬けて染める漬け染めでしたが、江戸時代に「刷毛で布面に色を塗る・引き染めが可能な染料が開発された」事で絵画的な模様染めが可能となりました。この事から友禅染の技術的特色は、 「糊防染と色挿し」と言われています。京都で江戸時代中期に始められた友禅染の技法は、絵画に近い文様表現を可能にし、日本染織史に新たな時代を築きました。友禅染めは、扇絵師として人気の高かった宮崎友禅斉が自分 の画風を模様に取り入れ、模様染めの分野に生かした事で生まれたと言われています。