戻る 次へ


「応仁の乱」の頃には、階層や男女を問わず一般的な衣服となりました。(小袖とは、広袖に対する言葉で、袖口を広く開けずに狭く仕立ててあります。)そして、平安時代の女房装束は、 袖口や裾からこぼれる衣の重なり合った色彩の美しさを競いましたが、小袖が上着として使用される事で、小袖そのものの文様が重視され、小袖の背面が1枚の面となり、様々な技法・様々な図柄が表現される様になります。小袖は、日本の 「着物」のルーツとなり、桃山時代の小袖には片身替り・段替り・肩裾などの大胆な模様が描き出されます。
 室町時代の歴史
足利幕府は、軍・管領・守護大名・公家などの支配体制となります。16世紀半の染織工芸は、海外の染織品の影響を受けつつ、素材や技法が多様化します。そして、中国から輸 入された刺繍作品の刺激を受け、日本でも小袖などに精巧な刺繍が使用され、刺繍と金箔を併用した「縫箔」という加飾法も生まれます。室町時代末期からは、「辻が花」と呼ばれる染物が生まれます。この時代に生まれた染織技法の「辻が花 染」は、日本独特の縫締め絞り中心に、描絵や摺箔などが用いられています。
辻が花染
「辻が花染」は、近世初期を代表する染織品ですが、室町時代末頃から江戸時代初期の比較的短期間に作られ、その後途絶えました。この時代の「辻が花染」は、主に麻地の絞染・模様染した夏の帷子(かたびら)の名称で、庶民的な衣でした。 現存数は、断片を含めても300点程で「幻の染物」と呼ばれています。「辻が花染」は、縫い締め絞りが主で、これに描絵・刺繍・摺箔などの加飾を加えたものです。「地」は、特有の練貫地を多く用い、小袖と胴服が大部分です。「辻が花」 の語源ははっきりしていませんが、14世紀末から15世紀初めの絵巻『三十二番職人歌合』には、「桂女」の詠歌として「春かぜに わかゆ(若鮎)の桶をいただきに たもともつじが はなををるかな」とあり、これが「つじがはな」の由来と されています。このように「つじがはな」という言葉自体は室町時代から存在したが、その語源ははっきりせず、染色技法の名称としての「辻が花」も現在と意味合いが異なっていました。1603年頃の編纂である『日葡辞書』の「つじがはな」 の項は、当時「つじがはな」と呼ばれていたのは麻で織った帷子の類であり、「辻が花」が前述のような縫い締め絞りの製品を指すようになったのは明治時代の事と書かれています。