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夾纈
「夾」は「挟む」という意味で、文様を彫った2枚の板の間に布を挟み込んで染液に漬ける板締め染です。正倉院宝物の夾纈(きょうけち)には、「紺地花樹双鳥文様夾纈絁」( - きょうけちあしぎぬ)のように、 多色の複雑な文様を表したものが存在します。近世の友禅染のような引き染とは異なり、この時代の染色は浸け染でした。よって、複数の色を染めるには、布を何度も染液に浸す必要がありました。 夾纈には、左右対称形の文様を表すものが多く、布を2つ折にして板に挟み染めたようです。
その他
正倉院には、「摺染」あるいは「摺絵」という、より簡便な技法を用いた染織も存在します。これは、木の版型に柿渋などの染料を塗り、布を直接押し付けて染めたものとみられ、屏風を収納する袋などに用いられます。 このほか、正倉院裂には綴織、刺繍、組紐、編物など各種の染織技法が用いられています。また、羊毛を用いた氈(せん)という技法を用いた染織があります。氈は、各種の色に染めた羊毛を文様の形に配置し、水を掛け ながら固めていく技法(縮絨という)によるもので輸入品です。
注:奈良時代には、日本の染織技法の大半が出揃い、その技術や美術性も高い。
 平安時代の歴史
飛鳥・奈良時代の染織は、法隆寺裂・正倉院裂という形で残っています。しかし、10年以上続いた応仁の乱(1467 - 1477年)で京都の大半が焼け、平安時代 から鎌倉時代の染織は、現存数が僅かです。平安時代の正装は、身分の高い男性は束帯・女性は十二単の裳唐衣装束(もからぎぬしょうぞく)でした。しかし、こうした装束は残っていませんが、甲冑に使用されている色糸や 染韋(そめかわ)・平泉の中尊寺金色堂の須弥壇下の棺に納置されていた白平絹の衣類・厳島神社の古神宝のうちの錦半臂(にしきのはんぴ)・神護寺に伝わった経帙(きょうちつ) 等の特殊な物は残されています。また、 この時代の染織は重ね着が主流で、薄物の織物が主流となる事で、前の時代に見られた華麗な「文様染め」が衰退していきます。そして、三纈のうちの臈纈と夾纈の技法は衰退し、纐纈(絞り染)技法がわずかに残るようになります。 鎌倉時代に入り、宗教的な思想が深まる事で、鎌倉と都との往来に女性が物詣する壷装束が用いられるようになります。女性の袿はやや袖丈が長く、侍女は小袖に裳袴の着装になります。16世紀頃になり、上層階級の下着であった小袖が、武家の台頭と服装の簡素化により徐々に上着として着られるようになりました。