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また、風景文様の原型が考案されたのは江戸時代初期で、裕福な町民たちが着用した帷子(かたびら)と呼ぶ夏の麻着物に使われました。
後に茶屋染めの技法は、友禅染めを誕生させ江戸時代の中頃友禅染めの技法は広く知られるようになり、町民の間では色数の少ない茶屋染めの着物の人気はしだいに低迷していきます。寛永の頃には、麻
の単で夏の衣装である帷子(かたびら)に用いられた染めの技法として大名家や公家の女性が使用しました。 更紗 更紗の渡来は、「染め」の文様表現が再び盛になり、鍋島更紗が生まれ、江戸時代後期に日本各地で更紗の模倣品が生まれました。(天草更紗・長崎更紗・堺更紗・京更紗・江戸更紗などが知られていま す。)江戸中期から末期にかけ日本各地で木綿の生産が盛んになり、小紋や友禅で使用されていた型染めは木綿にも使用されるようになり、和更紗として一般の人々にも普及するようになります。文様に は、手描きや木版のほか日本独特の技法である伊勢型紙を用いた型染めがあります。(伊勢の特産である伊勢型紙は、渋紙を何枚か重ね、彫刻刀で繊細な文様を彫り、これを布面にあてがい刷毛で染料を 塗り込むのに使用します。)また、アカネ染めの技法が無く全体に色彩は地味でした。また和更紗は、男性の下着・女性用の帯・和装小物・風呂敷・布団地 等に用いられ、素材としてはインド更紗と同 様に木綿が原則でした。そして大正時代末期頃からは、更紗文様が絹製の帯などにも使用し、着尺に染められ、第二次世界大戦後には更紗の着物が普及するようになります。その染色方法は、楊梅(やまも も)・黄蘖(おうはく)・黒木などの植物染料に、紅殻(ベンガラ)・黄土(おうど)・ペレンス 等の鉱物顔料を用いました。 *鍋島更紗 慶長3年(1598年)、朝鮮出兵から帰国した鍋島直茂が朝鮮から連行してきた九山道清(くやまどうせい)によって始められたと伝えられています。染めは、木版と型紙を使用していました。そして、 焼き物の鍋島焼と同様に佐賀藩で保護奨励されていました。しかし、鍋島更紗の伝統は明治になって一時途絶え、1960年代に地元の染織家鈴田照次が復活しました。 *京更紗 水質のよい堀川に染屋が多くあったことから「堀川更紗」とも呼ばれました。初期の手描き和更紗は、京都で友禅染という背景があった事で早く作られました。文様は、曲線のメリハリが効いた唐草文様や 格天井風の文様や幾重にも連続する幾何学文様でした。また、京都で染め上がった更紗は京都で販売された一方で堺港から各地に運ばれました。 |