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 奈良時代までの歴史
縄文時代初期の鳥浜貝塚(福井県)から編物や縄の断片が出土し、縄文時代前期から中期の三内丸山遺跡(青森県)から編籠が出土しています。 よって日本では、織物より以前に編物が行われていたという事が裏付けされています。また、縄文時代末期の出土品に布目の痕跡のある土器が存在する事から、布製品が生産され、織物は ヤマフジ・クズ・シナ ノキなどの樹皮繊維と苧麻(ちょま)・大麻・イラクサなどの草皮繊維を原材料としていた事が裏付けされています。
弥生時代前期の有田遺跡(福岡県)から出土の銅戈(どうか)に付着していた平絹片(へいけんへん)が、日本最古の絹だそうです。「日本書紀」には、「仲哀天皇(199年)、秦の功 満王が蚕種を献上」という記述が有ります。「魏志倭人伝」には、「3世紀には倭国では麻を植え、養蚕を行っていた」という記述もあります。弥生時代の唐古遺跡(奈良県)・登呂遺跡 (静岡県) 等の遺跡から織機の部品と思われる木製品や錘(つむ)が出土し、吉野ケ里遺跡(佐賀県)出土の甕棺からは絹製品の断片が出土しています。これらの事から弥生時代には、 日本列島で絹織物が生産され、3世紀から5世紀頃には中国大陸や朝鮮半島から染織に関わる職人が渡来し、技術を伝えていた事が判明しています。
そして、6世紀半ばに朝鮮半島の百済経 由で仏教を受け入れ、寺院や仏像・瓦 等を造るための工人も百済から渡来しました。このように、中国や朝鮮半島から多種多様な影響を受け、染織も隋・唐 の絹織物などの染織品とその技術が輸入され、日本の染織工芸は飛躍的 な発展をとげたと考えられています。また、日本の染織工芸が、作品として残っているのは7世紀後半以降と言われています。
8世紀頃の染織製品が、法隆寺裂・正倉院裂という遺品として 法隆寺と東大寺(正倉院)に数多く残されています。しかし、平安・鎌倉時代(9 - 14世紀)の染織製品はきわめて少なくなっています。

―参考―
正倉院の染織品は、日本製と中国からの将来品が混在した8世紀頃のもので、正倉院裂と呼び、件数は約5000件、点数は用途不明の断片なども含め10数万点になります。技法的には、錦・綾・羅などの 織物と上代三纈(さんけち)と呼ばれる臈纈(ろうけち)・纐纈(こうけち)・夾纈(きょうけち)等の染物などで、当時の日本で行われていた染織技法を網羅しています。また、この時代の織物は「錦と綾」 に代表されます。