戻る 次へ


江戸時代 1624年頃 小紋が武士の裃(かみしも)として発達します。江戸小紋は、侍の礼装であった裃(かみしも)の模様から発達したもので、普通の小紋よりも少し格が上で、青海波や菊などの、鱗のような小さな模様が全体に入り、一色で染めいるため遠目には色無地のように見え、「裃小紋(かみしもこもん)」と呼んでいました。型紙に彫られた型によって染め模様をつくり出す「型染め」には、大紋・中級・小紋の3種類があり、その中の小紋柄が、当時武士が登城する場合など公務の際に着用した袴の柄に使われるようになりました。また、家によって使う柄が決まり他家の柄を使用出来ない場合もあったようです。江戸時代中頃になると、小紋は庶民のあいだでも用いられるようになりました。
1670年 播磨出身の赤石次郎が小千谷に移住し、越後上布に縮織の技法を取り得れ小千谷縮を織り始めました。
1687年頃 衣装雛形本「源氏ひながた」に「友禅染」の名称が記述さています。友禅染は、様々な染織技法を取り入れながら江戸中期に完成します。
1716年
~35年
加賀にて加賀友禅が染められる様になります。
奄美大島で、絣柄(かすりがら)の大島紬が盛んに織られる様になります。しかし、日常着でなく薩摩藩への上納品として使用されていました。
1720年以降 丹後地方では、西陣からの技術導入で丹後縮緬を織り始めます。
1730年 西陣の大火で、織り機の大半を焼失します。職場を失った職人が地方へ流れた事で、地方での織業が発達する結果となりました。
江戸時代末期  江戸時代に入ると、京都や江戸に更紗の模倣染を始める染色師が登場します。当初は、手書きで羽織裏や帯 等に使用され、やがて小紋などを染める型染め(型紙を使用して染める)の技術が取り入れられ、着物なども染めるようになりました。そして、型染めと更紗の技術が融合し、江戸時代末期に「江戸更紗」が確立しました。