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弥生時代末期   『魏志』「倭人伝」によると、景初3年(239年)、正始4年(243年)、泰始2年(266年)に倭から 魏に斑布、倭錦、絳青縑、異文雑錦などを献上しているが、これらが具体的にどのような染織品であったかは判然としない。『書紀』によれば 応神天皇20年(289年)に阿知使主(あちのおみ)父子が来朝し、大和檜隈で綾を織った。
古墳時代  4世紀 帰化人により養蚕や製織ご術が伝来し、絹織物が発達した。
5世紀 中国から紅花が渡来し、赤の染色が大幅に変化する。 
5世紀 紫根染が渡来し、深紫・浅紫 等が染めらせる。
5世紀 麻織物の「倭文布」が織られるようになる。
飛鳥時代  6世紀     中国から仏教が伝わり、刺繍によって仏像を模した繍仏も伝来した事で刺繍の技術が発展。 
603年 「冠位十二階」が制定される。そして、染織技術が発展した事によって冠・服の色で社会的地位を表す事になる。
605年 最古の繍仏を1年かけて完成させたと日本書紀に記述がある。
646年  絹・絁(あいぎぬ)布の尺度を制定したと日本書紀に記述がある。
 奈良時代 710年  正倉院伝来の染織品は、正倉院裂で、現存するものは件数にして約5千件、技法的には錦、綾、羅などの織物、上代三纈(さんけち)と呼ばれる臈纈(ろうけち)、纐纈(こうけち)、夾纈(きょうけち)などの染物です。夾纈は不幸にして天平の世を限りに姿を消しましたが、纐纈(コウケチ)は絞り染め、ろう纈(コウケチ)はローケツ染めとして現代にまで伝承されてきました。そして、「描き絵・摺り絵・刺繍」などと共に文様を織り上げる様になります。
711年  挑文師(あやとりし)は、織部司(おりべのつかさ)に属した官で、錦(にしき)・綾(あや)などの高級織物の製作にあたり、諸国に派遣され織りの技術を広めた。
714年  上野国では、絹織物が奈良時代初期に生産されました。また、「相模・常陸・上野の三国から、初めて絁(あしぎぬ)が調として納められた」と「続日本紀」に記述があります。
750年頃  正倉院の染織品が750年頃が最も残されています。