戻る 次へ


山 形

置賜紬(おいたまつむぎ)

置賜紬は、8世紀初めに始まったと言われています。米沢・長井・白鷹近郊は、江戸時代から織物の原料となる青苧(あおそ)を栽培し、越後方面に出荷する原料生産地でした。江戸後期の米沢藩第9代藩主上杉鷹山は、自給自足の織物産地を目指し、青苧を使った織物の生産を開始し、越後から職人を召喚し縮織(ちぢれおり)の研究を行いました。しかし、凶作によって青苧織を中断し領内に桑を植え、養蚕を奨励し「絹織物生産」へと方向転換させます。また山形では、日本有数の紅花産地で高級品として京へ出荷していました。この紅花を米沢では、草木染に使用し植物染料(紅花・藍・紫根(しこん)など)で糸を染めて織る「先染め」の技術を確立します。養蚕地だった長井・白鷹でも織りを初め、明治期に新潟など技術者を招く事で高度な絣(かすり)技術を開発します。これらの背景が、大正期から昭和初頭に長井紬の「米琉(よねりゅう)絣」・白鷹紬の「板締小絣(いたじめこがすり)」を全国に展開するようになります。置賜紬は、独特の風合いと意匠を持ちながら、米沢草木染・長井紬・白鷹紬として現在まで続いています。
長井紬は、紬絣独特の優雅さが持ち味とされ、白鷹紬は、繭より紡いだ糸を板締めで染め、高機で絣を織る技法持っています。絣の種類は、米琉板締小絣・白鷹板締小絣・緯総絣・併用絣・草木染紬・紅花紬の6品種があり、いずれも糸を先に染めてから織る先染めの平織(ひらおり)の手法です。現在、山形県米沢市・長井市・白鷹町の3地区で伝統的織物を生産しています。地域で製造方法が異なり、草木染は米沢市・緯総絣と併用絣は長井市・米琉板締小絣と白鷹板締小絣は白鷹町で生産されています。
昭和51(1976)年、それぞれの地で発展した伝統紬は「置賜紬」として、国の伝統的工芸品指定を受けています。置賜紬組合は発足以後、さまざまな取り組みを行ってきました。そのひとつが有志による「古代米琉紬」の復元です。また、江戸時代に全国有数の産地として知られ、草木染に使われていた紅花染を山形紅花染織同人協議会は、化学染料を多く含んだ紅花染でなく“純粋な紅花染”を普及しています。

1)長井紬(ながいつむぎ)

米沢藩の上杉鷹山が奨励した平織の絹織物で、八丁撚糸を使用した独特の糸を使用し独自の風合いを出しています。また、結城紬(ゆうきつむぎ)の製法(経糸に生糸・緯糸に紬糸または玉糸を使用)を取り入れ、経緯糸とも板締絣加工を行い、植物染料のカッチやログウッドで浸染して絣に工夫を凝らしています。現在では、古典的で大き目の柄が多くみられますが、色調は素朴で味わいのある紺や鼠・茶といったものから朱色系や緑色系を用いた新しい感覚のものが織り上げられています。
長井地方と白鷹地方は、江戸時代初頭から直江兼続の施策によって青苧(あおそ)を栽培、日本各地へ出荷していました。その後、藩主上杉鷹山公の時代に養蚕地帯に転換し、越後から小千谷縮師や仙台から藍作師が招かれ絹織物を発達させます。明治には、長井市の織物問屋が新潟県十日町から指導者「高橋仁右衛門」が経緯絣という新たな絣(かすり)技術を普及させ、長井紬を代表する「米琉(よねりゅう)絣」が生まれました。「米琉」の名は、商人が明治八年頃につけたとも言われています。明治に入ってから「長井紬」と名称が変更されました。 明治から大正にかけて好評を博した大島紬の影響をうけ、一時、鳶茶色系の大島調小絣が主流でしたが、現在は紺絣や白絣など多様化し、先染めした経糸と緯糸の柄を一本一本合わせながら織る「緯総(よこそう)絣」と「経緯併用(たてよこへいよう)絣」などです。手織りの紬は「置賜紬(おいたまつむぎ)」として国の伝統的工芸品指定を受けています。