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福 島 |
会 津 木 綿 |
色は地味ですが美しい地縞が特徴です。厚地で大夫・肌合いが 良い・保温性や吸汗性に優れている事から主に日常着や野良着に使用されました。 1627年に会津へ国替えとなった会津藩主・加藤嘉明が、前領地の伊予松山から織師を招いて技術を伝習したのが起源と伝えられています。そして、会津藩主となった保科 正之が綿花の栽培を奨励し定着させました。当時、機織りは農民だけでなく藩士の妻女の内職としても行われ、農・商・工業にたずさわる庶民は藍草・綿花の栽培及び製品を 販売していました。その後、倹約令などにより木錦織物の作業も農民の副業へと移っていきました。明治中頃、紡糸紡績業が発達し力織機が普及し、明治末期から大正にかけ て会津木綿の生産は最盛期を迎えます。しかし、昭和30年代半ば以降に人々の生活スタイルの変化と主に農家の仕事着としての需要が減少ました。 |
川俣紫根染(かわまたねむらさき) |
万葉の時代から行われてきた紫草の根で染める紫根染は、綺麗な紫を発色させるのが難しい染色方法です。現在では紫草が減少したこともあって、紫根染の伝統は途絶えつつあります。 注;紫草(むらさき) 紫色を染めるので色名が、この植物の日本名になりました。 注;根紫(ねむらさき) 川俣地方で採取される紫草で染め上げた絹織物やその染料で紫根染(紫草染)をこの地域では根紫染と呼びます。 奈良時代は、夫郡小手郷(現在の伊達郡南部から安達郡北部で川俣町がその中心)は、藤原氏の菩提寺であった奈良の興福寺の荘保でした。古く川俣は、絹織物の産地であったことから絹 織物を紫草で染め、貢ものとして都へ運ばれていたようです。江戸時代に入り一般大衆が紫色を使用出来る様になりました。江戸時代後期に川俣の根紫染めが文献によって確認出来ます。 18世紀頃の染色記録調査 岩代添野村 惣七より 「奥州 川又村 紫染伝 文化13年(1816)子八月 奥州川又村 紫染ヤ 忠 右ェ門 ぬかた村 喜兵衛 安右ェ門 伝也」。近江商人により、川俣紫・川俣根紫が江戸と京都で販売されていとあります。 紫根染の染色技法は、染色の中でも特殊で、貴族の独占でであった事から染色法が秘伝でした。明治になり、化学染料の安価で手軽な染色方法が普及し姿を消した幻の染色技法です。 |