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川俣羽二重

軽目羽二重の主産地である川俣絹は、古代は 「小手子姫の住まう地区」の絹織物として「姫舘(ひめたて)」の絹、舘(たて)の音読みで「盾絹(たてきぬ)」と呼んでいたそうです。室町時代は、盾 絹を「平絹(ひらぎぬ)」と呼び約500軒の家で絹を生産していたと文献に書かれています。江戸時代は、近江商人が江戸と京都に運び販売し川俣絹(川 又絹)あるいは糸好絹(いとよしきぬ)と呼んでいました。婚礼衣装や喪服など正式な場所には黒に染め上げた羽二重絹が使用されていました。婚礼用は、 赤の染料を下染し、その上に黒の染料を染め重ね、喪服用は、青の染料を下染し、その上に黒の染料を染め重ねていました。輸出広幅羽二重が川俣で生産さ れるようになったのは、明治17年からです。明治11年に群馬県桐生で輸出羽二重が始まり、明治17年川俣に製織法が伝わりました。翌18年米沢に、 19年石川県、20年には福井県に伝わり、富山・山形県鶴岡に伝わりました。
川俣産地の絹の薄手(軽目かるめ)羽二重は、絹の純白と柔らかな感触、丈夫さ、そして しなやかさに優れ、ストッキング用として明治から大正にかけて 盛んに欧米へ輸出されました。また夜会用の手袋、ストール、ハンカチ、シルクハット(山高帽子は絹製品で出来ていた。後に霧や雨に強いスエードで作ら れるようになった。)に使用され、川俣軽目羽二重のブランドを確立しました。現在でもKAWAMATAは、欧米の繊維業界では軽目羽二重を表します。
注:羽二重(はぶたえ)とは
羽二重という名称が一般に使われ始めたのは慶長期の頃と伝えられています。古くは「光絹」・「光潤iこうそう)」という字をあてていました。経糸 (たていと)と緯糸(よこいと)を交互に、規則的に製織した織物を「平織り」または「平もの」といいます。1本の経糸を、細い2本に置き換えて製織した 平織物を羽二重と呼び、(1筬羽(おさは)経二重を表します。)薄くても丈夫な織物になり、二枚重ねると光りのハレーション(干渉)により、独特の木 目模様が浮かびます。
― 歴史 ―
最初に文献に現れるのは、慶長10年(1605)に前田侯から将軍家へ贈った進物の中で、「加賀羽二重」と記載されています。当時は、珍貴な品として上層 階級の人々の贈答品として使われていたようです。厳選された純白の繭のみ使用し、丁寧に節取りをして、歪みなく織り上げた平織りで、光るような真っ白 い、すべすべした若き乙女の柔肌のようであったと伝えられています。しかし、使用された糸は太く、かなり厚手の絹織物であったと推測されています。 羽二重が市中に出回ったのは、元禄時代(5代綱吉 1700)と思われます。「翁草」の著書の中に、「京都銀座、中村内蔵介の妻の衣装くらべ」という話が あります。(絢爛豪華な衣装の中で、清楚な黒染め羽二重に身を包んだ女性が、次々と羽二重の衣装を脱ぎ披露して、周囲を圧倒した話)元禄時代は経済が 豊かになり、豪商が輩出するにつれ、幕府から美服禁止令や呉服類売買の規制が出てくるようになった時代でした。 
注:羽二重の種類
組織、糸使いにより種類があります。湿した緯糸を使用し、生糸で織り上げ、後に精練(汚れやセリシンなどを洗剤や薬品で洗い落とす工程)する後練り (あとねり)の絹織物のことで、純白で上品な光沢と柔らかな肌触りの良さに特色があります。
・片羽二重・・・羽二重の規格で、より軽くする為、経糸を1本にしたものです。主に川俣の独壇場である軽目で、3匁羽二重以下の裏側が透き通ったカゲ ロウの羽根の様な羽二重をいいます。