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宮古上布(みやこじょうふ)


宮古上布の始まりは、1583年、進貢船を難破から救った夫の功績が琉球王朝に認められ、その妻である稲石が、綾錆布を王に貢上した事がきっかけと言われています。 それ以来、宮古上布は、王家御用布に指定され、色上布も織られるようになりました。1609年薩摩藩の侵略により重い人頭税が課せられ、これまでの色上布が減り、紺絣上布が主流となりました。宮古上布は、薩摩上布として江戸などに送られ、世に知れ渡りま した。宮古上布は、上質の苧麻(チョマ)糸で織った紺絣織物です。苧麻は、宮古では「ブー」と呼ばれるイラクサ科の多年草で、高さは1メートルから1メートル半にも伸びます。刈り取られた苧麻の茎の表皮を小刀でしごいてはぎ取り、繊維を取り出します。 それを手績みによって、さらに繊維を爪や指先で細く裂いて糸を績んでいきます。絣括りには、織締めと手括りが用いられます。染料は、琉球藍と蓼藍を混合して染めることで、深い紺地に絣の白が効果を出しています。宮古上布は、遠くからは黒か濃紺の一色のよ うに見えますが、実は細い絣の集合で模様が織込また繊細な織物です。250年も続いた厳しい貢納布制度で苦しめられながらも人々は、精緻な技を高めて行きました。

特 徴
苧麻の手紡ぎ糸で織った麻織物で、沖縄特産の泥藍で染織し、手織・砧打ちした上質の麻織物です。極細糸で織られている為、軽く堅牢で臘を引いた様な滑らかさと光沢があります。精緻な絣模様が特徴的で、一反を仕上げるのに二か月の時間を必要とするそうです。
夏の着尺地として東の越後上布、西の宮古上布といわれる最高級品として認められています。

用 途
夏の高級着尺地。

変 遷
李氏朝鮮の正史である「李朝実録」の中に、1479年に宮古島で麻布が織られていたという記述があります。しかし、精巧な上布が織られ始めたのは1583年といわれ、この年、琉球王朝から功績を認められて栄進した栄河氏下地真栄の妻、稲石が綾錆布を織り、 王に献上したことに始まるそうです。後に、宮古上布は王朝御用布となり、色上布も織られるようになりました。
宮古上布は、薩摩藩の侵略(1609年)を発端として全国に広まりました。万治元年(1659年)に薩摩藩は、住民に人頭税をかけ、人頭税を支払う手段として宮古上布を貢納布に指定しました。徴収された宮古上布は、薩摩上布として江戸などに送られることで 全国に広まります。しかし、この頃から色上布は減り、紺絣上布が主流となります。人頭税の開始によって精緻な織物が織られるようになりましたが、村役人の監視は住民たちの生活を悲惨なものにして行きました。(人頭税制は明治36年まで続けられた。)明治8 年には、宮古上布はアメリカの博覧会に出品されています。第二次世界大戦により宮古上布の生産は、一時中断されました。昭和二三年には再興され、手績み・正藍染・手織を条件とする重要無形文化財に指定されました。

*注 「人頭税」
  住民の頭数に課せられる税金です。宮古上布の場合には、15歳から50歳までの女性にかけられました。病人、不具者などの例外なくかけられた為、働けない家人をかかえた家は納税に苦しみました。