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久米島紬(くめじまつむぎ)

15世紀頃、堂之比屋が、中国から養蚕技術を学び伝えたと言われています。1619年 首里王府から派遣された 坂本宗味が日本の養蚕を伝え、1632年 友寄景友が染織の技法を伝えと文献に記録されているようです。そして、慶長以降に「貢納布」が久米島にも導入され、御絵図を基に厳重な監督下で織られてきました。 絣模様は、身分によって「王侯貴族用は御殿柄・士族用は城柄・庶民用は小柄」と区別されていました。久米島紬は、島に自生する植物であるグールやティカチなどの植物染料で下染めし、鉄分を含む泥で何日も 重ねて染め上げ、黒褐色で深みのある色合いが特徴です。また、蚕の繭から真綿を作り、手に水を付けて湿らせながら糸を紡いでいきます。織り上がった布を「砧打ち」をする事で光沢が現れ、布をしなやかな柔 らかい風合いに仕上がります。仕上がった反物は、厳しい検査員の検査を経て流通する為、今も極めて高い品質を誇っています。

変 遷
古くから南方諸国との交易が盛んだった沖縄には、14−15世紀に「インド系の絣技法」が伝承されたと言われています。また同じ頃、桑の成育のよい久米島では養蚕が行われ、絹織物が織られていたそうです。 これらの条件から生まれた沖縄独特のチュサラ(清い・涼しい・美しい)感覚の絣織物は、やがて久米島紬に発展して行きます。また、本土各地の絣織物に影響を与えた最も古い絣織物と言われています。起源は、 15世紀半ばに、堂之比屋が明国から養蚕と糸紡ぎ法を持ち帰った事が始まりと言われています。その後、1619年に王命で越前の坂元普基入道宗味によって久米島に桑の栽培・養蚕・真綿の製法などの技術、 1932年に薩摩藩士、酒匂与四郎右衛門によって八丈島の泥染技法が伝授されました。多くの技術導入が、第一級の織物と成長を支えました。1609年に薩摩藩が沖縄に侵攻してからは、久米島紬は人頭税の 貢納布に指定され、薩摩を経て江戸に送られて「琉球紬」の名で珍重されました。また、王家御用紬には、絣柄図案帳「御絵図帳」の規格が厳格に守られ用いられました。この事は、久米島紬の技術は向上役立ち、 洗練され少しも乱れも傷もない精巧で端正な織物となりました。

染色法
島の山野に生い茂る植物を染料とします。グール(サルトリイバラ)・テチカ(車輪梅、テーチキ)・クルボー(ホルトノキ)・楊梅・ユウナ(オオハマボウ)等を染織材料とし、五色の基本色を染め挙げます。

・焦茶   グールとテチカで染め、泥染する。
・黄    クルボーと楊梅で染め、「みょうばん」で媒染する。
・赤茶   グールとテチカで染め、「みょうばん」で媒染する。
・うぐいす クルボーと楊梅で染め、泥染する。
・ねずみ  ユウナで染め、グジル(豆汁)で媒染する。