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佐  賀


佐 賀 錦


佐賀錦は、「金・銀・漆」を貼った特製の和紙を細く裁断し経糸し、絹の撚糸を染色し緯糸として織り上げます。その紋様は、伝統的な網代 (あじろ)・紗綾(さや)型・菱 等多種多様あります。作業は、精緻な技術を必要とする非常に根気のいる手仕事で、一日わずかしか織る事が出来ません。袋物などの実用品が多く作られますが、帯など大きな作品も製作されています。また、手作りの素 朴で暖かい魅力と和紙の持つ温もりの中に、絢爛豪華で気品のある優雅な美しさを秘めており、美術工芸品としての価値があります。
佐賀錦は、江戸時代末期に肥前(佐賀県)鹿島藩鍋島家で創案作成され、鹿島鍋島家の女性達の苦心の創作であるといわれています。佐賀錦の起源については、「鹿島説と小城説」が存在しているそうですが、有力なのは鹿島説であるとされています。 明治初期に入ると佐賀錦は、一時中断されますが、佐賀県出身の故大隈重信候がこれを惜しみ、旧華族の間で再興し評判となりました。その後、明治43年にロンドンで日英大博覧会が開催された時、当時まだ鹿島錦と呼ばれていた作品を出展し佐賀錦と名付 けられました。織り方には、「平織り・様織り・綾織り」の3種類があります。平織りは、普通の織物で使用される技法です。紋様織りは、平織りに種々の色糸を織り込んで花鳥風景などの紋様を織り出す技法です。綾織りは、お組物とも呼ばれ、経糸を織 台に張り、竹へらで目数を拾って直線構成の幾何模様を組み、織りあげる技法です。佐賀錦の織り方は、この綾織りが主流となっています。主な紋様としては、「網代・紗綾型・菱紋・文字紋・柳紋・亀甲紋・雷紋 等」数十種類あります。

―注― 1)「鹿島説」
今から約180年前、鹿島鍋島家9代目藩主夫人柏岡の方が、病の床に伏せていた時に部屋の風雅な天井の網代組(あじろぐみ)の美に心を打たれ、これを日常生活に応用できないかと近侍の者に相談され、近習の並木某が研究の末、観世縒(かんぜより)で網 代を編み印篭(いんろう)を作成したと言われています。佐賀錦にここまで工夫、改良を加えたのは、鹿島藩歴代の夫人である柳岡公、藹子(あいこ)夫人であり、その伝統は14代直繩(なおただ)の夫人政子氏に受け継がれ、今日に至っています。
2)小城説
約300年以上も昔から佐賀錦はすでに小城藩で作られ、それを柏岡公が鹿島藩に伝えた。