戻る 次へ



福  岡


小倉織(こくらおり)


江戸時代から明治三十四年まで 小倉で生産された木綿織物です。徳川初代将軍徳川家康が陣羽織として着用し、 江戸時代の武士や庶民の間で愛用されたようです。「広益国産孝」(安政六年)には、幕末期 小倉が日本の木綿織物の代表的な産地の一つだったという記述があります。森鴎外の小説「青年」の中にも小倉袴の 呼び名が出てきます。豊前小倉を代表する特産品でしたが昭和初期に衰退しました。しかし、北九州出身の染織家・築城則子氏によって、数少ない資料も用い研究と試織を重ね、1986年に復元されました。築城氏 による小倉織は、糸を植物染めして手織りで作成されます。経糸が多い為、緯糸が見えず、柄はたて縞が特徴となっています。


博多織(はかたおり)


鎌倉時代の1241年に、円爾(弁円)と共に宋から帰国した博多商人の満田弥三右衛門(1202年-1282年)が持ち帰っ たとされる唐織の技術が、博多織の始まりと言われています。弥三右衛門はこれを「広東織」と称し、この技法を家伝としました。独鈷と華皿の図案化は、弁円の助言によるものと伝えられます。弥三右衛門は、織 物技術の他素麺や麝香丸などの製法も習得し、これらを人々に教えたと言われています。16世紀頃、弥三右衛門の子孫である満田彦三郎は、明の広州に渡って織物技法を研究しました。帰国後、家伝の技法と学ん だ新技術を竹若伊右衛門(藤兵衛)と共に工法の改良を重ね、厚地の織物を作成したと言われています。緻密なところは、琥珀織(タフタ)に似ており、浮線紋や柳条の模様が浮き出た織物でした。地質が非常に堅 く、反物としてよりも帯として用いられ、これが博多帯の始まりと言われています。彦三郎らは、これを「覇家台織」(はかたおり)と名付けました。(「覇家台」とは、中国における博多の呼称の1つです。)江 戸時代になり、筑前国福岡藩初代藩主黒田長政によって博多織の反物と帯が幕府に献上されるようになります。これにより博多織が献上博多、博多献上、献上柄とも呼ばれる様になります。献上博多織は、青・赤・ 紺・黄・紫の5色を揃えた事から、「五色献上や虹献上」と呼ばれます。刈安染の青は「仁」・茜染の赤は「礼」・藍染の紺は「智」・鬱金染ないし楊梅皮染の黄は「信」・紫根染の紫は「徳」を表していると言わ れます。福岡藩は、献上品の品質保持を理由に、織屋株制度を敷いて12戸のみに限定した為、江戸時代を通して品質を維持する事が出来ました。しかし、明治時代に株制度が廃止され自由競争となり業者が乱立し ました。そこで、品質低下を防止の為、1880年に博多織会社を設立、6年後に博多織同業組合となりました。現在は、出資組合である「博多織工業組合」として存続しています。1885年には、ジャカード機やドビー 機が導入され、本格的な機械織生産を開始しました。1815年商人の山崎権兵衛が、歌舞伎役者の市川団十郎と岩井半四郎に、歌舞伎の「夏祭浪花鑑」で博多帯を締めて演じたそうです。その影響で、博多帯が当時の 流行になったと言われています。その他に、中村仲蔵も仮名手本忠臣蔵の中で、斧定九郎を演じ、黒の羽二重に白の博多帯の衣装で演じました。そのことが、粋で話題になりその後、定九郎の衣装が定着したと言わ れています。(伊勢音頭の仲居万野の帯等、他にも多くの歌舞伎の演目で博多帯は登場する。)戦後、高度成長期に需要が増大し、生産高・組合員数が過去最高となり、オイルショックによるバブル崩壊で減少して 行きます。1971年に織職人の小川善三郎が人間国宝に認定され、1976年6月2日に博多織が国から伝統工芸品に指定されます。そして善三郎の子の小川規三郎は、2003年に人間国宝に認定されます。同時期に伝統工芸 士の熟練技術をコンピュータで再現させるエキスパートシステム化プロジェクトが博多織についても1994年から始まり、その過程でカラー写真織技術が開発されました。2002年には、博多祇園山笠の人形の衣装の生 地として、西陣織から博多織に変更されます。博多織の発展と次世代職人の育成を目的としたNPO法人「博多織技能開発養成学校(博多織デベロップメントカレッジ)」が2006年4月に設立され、後身の育成が図られ ています。