戻る | 次へ |
西 陣 織(にしじんおり) |
京都の絹織物の歴史は、京都 太秦で5・6世紀帰化豪族の秦氏(はたし)が大陸の養蚕技術や絹織を日本に持ち込み、拠点を置いた事に始まると言われています。 794年平安遷都が行われ、朝廷で使用される沢山の最高級の織物が必要となり、宮廷機織工業が開花したと言われています。 しかし、平安中期以降は、律令というそれまでの政治のシステムが崩れる事で、宮廷の官営工房も衰え始めて行きます。それに伴い、政府の手を離れ た所で美しい織物が作られ始めます。鎌倉・室町と時代は移りますが、権力者達は最高級の品物を京都に求める事は変わらず、高級手工業の中心地としての京都の地位は、揺らぐ事はなかったと言われています。 しかし、室町時代に起きた応仁の乱は、京都の町を兵火に焼き、 織工たちが集り住み機織りをしていた地域を荒廃させました。織工たちは疎開を余儀なくされ、技術は離散してしまいました。10年以上続いた戦乱の後、ようやく京都に戻った織工たちが再び集って織物を始めた場所が、山名宗全(やまなそうぜん)率いる西軍が本陣を張っ た跡地すなわち西陣跡でした。 西陣に集結した織工は、高い技術を必要とする綾や錦などの織り手で、その後も中国の優れた染織品を手本に技術を高めていきました。その結果、安土桃山時代には、中国の輸入品に劣らない優秀な製品が西陣から市場に送り出されるようになりました。 江戸時代に入り、諸大名や豊かな町人層を顧客として高級織物の需要は、増加の一途をたどり、西陣は大きく発展していきました。そして、当時の日本では国産の生糸の品質や量が織りの技術に追い付かず、中国産の輸入糸を使用するようになります。 しかし、江戸後期になると、凶作や不況で高級呉服の需要が悪化し、丹後・長浜・桐生などの新たな産地が現れ、西陣の織物産業も斜陽化し、幕末には特に停滞してしまいました。その後、西陣は明治に入りいち早くフランス・オーストリアのジャカード・バッタンなどの機械 装置を輸入し、技術者を留学させる事で洋式の工業スタイルを導入して行きます。 西陣における近代化は、成功し日本の絹織業の近代的な技術革新の発祥地となり、再び高級織物の中心地としての地位を回復します。明治23年に西陣では、フランス宮廷の壁模様や椅子の模 様を参考にした、華やかな壁布が造営された皇居の為に織り出されました。 祇園祭にくり出す優雅な山鉾(やまほこ)には、西陣の技術の粋をこらした作品が飾られます。紋織りの創始者と呼ばれる紋屋次郎兵衛の「日本三景の図」、平野屋井上利助の織った円山応挙の「鶏之図」などの作品は、祇園祭用に作られた大作です。 |