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栃 木 


足利銘仙(あしかがめいせん)
足利銘仙は、栃木県の足利で生産される絹を素材とした先染めの平織物です。江戸時代の中期頃から織られていました。もともとは太織り(ふとり)と呼ばれ、正常に糸をとることができない処分される「玉繭・屑繭」から採る太い糸を緯糸(よこいと)に用いた丈夫な平織物でした。江戸時代後半、この太織り(ふとり)が庶民の間に広まり、武士が普段着や略式の晴れ着として着用していたようです。
銘仙の呼び名は、
・太織り(ふとり)を「太」が「肥える」を連想させる為、女性の衣料には適切でないという説から「銘仙」と呼ぶようになった。
・経糸の本数が多くて緻密な織物である。目が細かいので「目千」、縞専門で「目専」と言われた事から転訛した。
・銘茶や銘酒の「銘」と、仙境で織られる事を想像させるような「仙」をとり「銘仙」とした。
等 上記諸説あるようです。
江戸時代後半から明治時代には、縞柄がほとんどでした。明治から大正時代になると経糸(たていと)と緯糸(よこいと)の糸を故意的にずらす事で、色の境界がぼけるような柔らかい見栄えである銘仙が当時の流行となりました。そして、足利銘仙は「解し絣」が多かったようです。大正2年(1913年)には「解し織」が足利の根岸藤平、関川粂蔵によって特許出願24612号となり、現在では、栃木県伝統工芸品となっています。

桐生織は、昭和52年10月に通商産業大臣から伝統的工芸品桐生織の指定を受けました。現在通産省、群馬県、桐生市の指導をもとに、桐生織物協同組合が中心になって桐生織が一層さかんになるよう事業を行なっています。

注:足利の織物産業の沿革  (詳細は、足利織物組合HP参照)
「奈良時代から平安時代から鎌倉時代」
足利の織物は歴史が古く、奈良時代初頭に足利地方から「ふとぎぬ」を献進したと伝えられています。また、奈良の大仏開眼の時に東大寺の御領地として織物が送られ、平安時代に入っても続き(正倉院の文書中に明記されている)、徒然草に「さて年毎に給はる足利の染物(足利の織物)」と記載されています。


「江戸時代」
貨幣経済が発達すると、足利織物は綿の糸で織られるものが多くなりました。「木綿縮」や「足利小倉・足利結城」などは大変な人気でした。足利の村々で作られる織物は「足利織」とか「足利織物」と呼ばれ、今までの貴族愛用の手から離れ一般大衆に愛用され全国に知られていきました。