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鳥  取


弓浜絣(ゆみはまかすり)


鳥取県米子市、境港市、西伯郡淀江町で主に織られています。地綿を手引し、緯糸に種糸を用いて墨印をつけ、荒苧で手くびりし、地藍で染め、緯糸 だけで絣模様と絵模様を織りだすのが特徴です。鳥、花、扇面、人名など日常生活に密着した柄を織りだした華やかな絵絣木綿織物です。
この地方は、土壌が農作物に適さず綿の栽培に力を注いだ良質の伯州綿の産地でした。この伯州綿を用いた綿布は、江戸時代の明和年間(1764〜1772)、安永年間(1772〜1781)の頃には、大阪にまで送られていました。江戸末期の文化年間(1804〜1717)に絣の 技術が伊予から伝わると、絣が織られるようになりました。大正時代までは盛んに生産されていましたが、手間がかかり高価で有る事から、伝統的な弓ヶ浜絣(手紡ぎ・正藍染・手織)は、伝統を継承するのみです。現在、紡績糸・化学染料・機械織による弓ヶ浜 絣は織られていますが、生産量は年間一万反程度となっているようです。
―弓浜絣詳細―
弓ヶ浜半島の伯州綿栽培地を背景に、発展した絣木綿です。浜絣・弓ヶ浜絣とも耀ばれているようです。米子から境港に至る幅2キロ・長さ20キロの半島を、昔は「浜の目」と呼んでいた事から、江戸末期頃この地方で織られていた絣木綿を「浜の目絣」と呼んでい ました。この事から、弓浜絣の前身は「浜の目絣」と言われています。明治期から弓浜絣は盛大となり、全国各地に出荷されました。『鳥取県綿業史素』伯耆文化研究会・昭和30年刊には「明治35年、弓浜絣は6万1千反」と生産量を記されています。江戸末から明 治・大正・昭和へと伝統の弓浜の絵絣は継承されて来ました。戦後は弓浜絣保存会(会長・角正)が結成され、新たな振興を期すべく昭和48年11月に弓浜絣協同組合(理事長・嶋田太平、組合員10名)が発足しました。昭和50年に国の伝統的工芸品の指定を受けます。昭 和58年には8,900反を生産されたようですが、平成21年現在の協同組合は組合員4名と減少しているようです。そして、平成17年には嶋田悦子氏が県無形文化財絣技術保持者の指定を受け、本藍染による手織り絵絣の伝承は継がれています。


伯(州)木綿(はくしゅうもめん)


江戸後期に、農家の副業に綿花を糸車で糸に紡ぎ、これを地機で厚手の白木綿に織り、京阪へ出荷販売していたようです。嘉永5年(1852)には地元木綿問屋は、倉吉 12、浜野目・佐田に各1、米子2、青谷2のほか計24軒だったようで、紺・浅黄・縞・絣木綿を各地から集荷して上方の問屋に出荷していました。しかし、白白木綿は、明治中期に綿紡績機械糸の薄地木綿に市場を奪われ衰退し、藍染の絣木綿が主力となっ て行きます。


青谷木綿(あおやもめん)


青谷木綿も伯木綿の一種と言われています。旧鳥取藩の御用紙を漉いた青谷村(現・鳥取市)は、今も「楮・三椏・雁皮」を流し漉きで伝承しています。 江戸後期の享和年(1801〜04)に、花原勘左衛門が綿織物を商品化し、京都・大阪へ出荷したそうです。文久年(1861〜64)に最盛期を迎え、明治初頭には減少し消滅していきます。