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山 梨
大石紬(おおいしつむぎ)

河口湖北岸の山畑で桑を栽培し、養蚕をして繭をとり、糸は全て座繰り手引きし、経糸は本繭(一匹の蚕が作った正常の繭)・緯糸を玉繭(二 匹の蚕が作った変形した繭)を使用しています。 染色は富士山麓に自生する草木を吟味し、丹念に織り上げていきます 。特徴は、丈夫で軽く・柔らかく絹特有のすべりの良さを持ち、絹織物と紬織物の両面の良さを併せ持っています。江戸時 代からこの地に伝わる伝統手織り紬で、山梨県郷土伝統工芸品に認定されています。また経糸に諸撚り糸を使うところから、唐糸織とも呼ばれ黄縞が主体の紬です。

― 歴 史 ―
孝謙天皇の御代の甲斐の国司山口沙弥麿により、郡内地方に養蚕と織物を伝えられたとそうです。また百済より、秦氏一族が富士山麓に定住した事で河口湖周辺に織物が発達したと伝えられています。
915年、「絹を朝廷に献上した」との一文が最も古い郡 内地域の織物についての記述です。江戸時代に入り、1681年の減租嘆願についての訴状に「つむぎ」が確認され、また黄紬の紬が織られたと記されています。 江戸時代末期には租税として物納されたようです。富士山を崇拝する富士講などの人々や、行商人の手によって広く売り出されました。明治・大正のころに改良が重ねられ、現在の大石紬が形成されていきます。この紬の 全盛期である明治の末から昭和初期にかけては、250戸余りの農家によって紬が織られ、年間3400反余りが生産されていたと言われています。

甲州印伝(こうしゅういんでん)

日本の革工芸の歴史は、奈良時代に遡ります。この時代に、革を染める・模様を描くなどの色々な技法が考案され、また外国より伝搬されたそうです。甲州印伝の特徴の一つである鹿革は、体になじみ、強度を備えていること から武具にも盛んに使われ、戦国時代には、燻(ふすべ)や更紗(さらさ)技法を用いた鎧や兜が使用されました。
印伝の由来は、1624〜1643年に、来航した外国人によりインド 装飾革が幕府に献上された際に名づけられたと伝えられています。その華麗な色に刺激されて、後に国産化されたものを印伝と呼ぶようになりました。
京都の地誌である『京羽二重』や十返舎一九の「東海道中膝栗毛」の中に「印伝」の記述があることから、江戸時代には各地で製造されたものとされていますが、現在、製法が伝わっているのは甲州印伝のみです。甲州印伝の起 源については、1854年、「甲州買物独案内」に記述があることから、 江戸末期には産地が形成されていたと言われています。明治期になると、信玄袋や巾着袋等が内国勧業博覧会において褒章を取り山梨の特産品 としての 各個たる地位を築き、大正期にはハンドバック等も製作され製品も多様化し、現在に至っています。