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そして、三河地方は国産木綿産業が最初に定着発展した土地です。17世紀まで三河木綿産地は、西三河の矢作川流域地帯が中心で、 東三 河地方はそれに次ぐ生産地であり、製品は白木綿が主でした。江戸時代から「棉耕作・糸紡ぎ・機織り・木綿販売」が分業し、組織化され、最大基幹産業として地域経済を担っていきました。
棉作は、畑・堤防・散田(課税外荒廃地)等で栽培されていました。温暖な土地で稲作にも適していましたが、常に灌漑不足に悩まされていた事もあり、棉作は最適作物として戦国時代から多く 栽培され自給自足されていました。江戸中期から木綿製品の需要増で価値観が上がり増産されるようになりました。当時は、稲作より有利とされ「表作」として盛んに行われ、「裏作」は麦畑と して利用されました。この地方における最も古い記録は、1667年(寛文7年)形原(今の蒲郡市形原町)の「一色村木棉田三割引帳」です。書物によると、「商取り引き」は、この当時から 存在したようです。さらに、組合組織の形態ができていて、ある種の統制が行われていたようです。
*注 「西郡組小買株鑑札」という書物には、 文久4年(1864)2月に西郡・三谷・水竹・畑・形原・西浦(以上、現蒲郡市)・深溝・六栗(以上、現幸田町)・幡豆(現 幡豆町)一帯の棉布小買人は、2人の帳元と12人の木棉行司の調印を行っ た厳格な鑑札を受けて商売をした。と記述があります。
三河織物業界は、江戸時代以来百余年にわたる古い歴史があり、「三河のしろあしぎぬ」と持てはやされました。紡織の歴史を技術の面から纏めた「日本紡織技術の歴史」(昭和35年)によると、 「江戸時代の棉織物はほとんど平織であった」と記述があります。機織り機は、「いざり機」で、「いざり機」は「木綿機」と呼ばれました。幕末近くに絹織の影響をうけた事で、能率向上の為 に高機が採用されるようになりました。農家の副業から出発して商品化をたどった棉業が、作業場を造り、工場になっていったのは明治初期の頃です。 また、幕末頃に絹織の影響をうけ、能率向上 を図り高機が採用され、明治初期に農家の副業から始まり本業に変化を遂げます。明治初めには、小田時蔵氏が機業を始め、遠州笠井(現静岡県浜松市笠井町)からチャンカラ機20台を購入し、近くの農家の 女性を集めて内機を始めました。三谷の武内せき女が、尾州中島郡祖父江村(現愛知県中島郡祖父江町)から機経台(縞木棉用)1機と4人の工女をつれてきて三谷町松葉で織布業を始めました。明治27年頃、 小林平次郎氏が飯田・伊奈附近の呉服商に頼まれて三河縞の周旋を行いました。これが三河縞の商機となります。尾州佐織縞が、染色粗悪化のために信用を失っていた時期にあたり、三河縞が地藍染で堅牢染 色だった事から売行きが向上し、関東方面への需要は増え続けます。同時期に蒲郡町で「黒甚」といわれた内田甚四郎氏は、主として東京向け白木棉を販売したと言われています。