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そして、組合は染色堅牢度や密度等を厳しく検査し、染色技術を進歩させるために染色研究会を結成しました。 その結果、明治37年(1904)に65万反だった生産量は10年後の大正3年(1914)には140万反に増加しました。しかし、工場で使用していた織機は、以前と同じチャンカラ機でした。 チャンカラ機は、回転機構のない木製の簡単な織機のため生産能力は低く、優秀な工女でも1日2反が限界でした。この状態では、ますます増え続ける需要に対応することは出来ず、小 田治作氏が浜松製牛田式足踏織機を購入し、朝鮮向け白木棉を製織しました。
注:足踏織機  遠州で発明されました。これを運転するのには足で踏木を踏み、この踏木が原動力となって軸を動かす回転機構のあるものでした。
その後、足踏織機で縞物を織り、牛田式200台を共同購入して、さらに製品の増産を向上させました。明治36年(1903)藍染業兼機業家の竹内芳太郎氏は、たまたま九州を旅行した時、 久留米の機業地を視察しました。当時、久留米の国弐工場では木棉縞(久留米縞と呼ばれるもの)1反3円以上という高級品を製造していました。赤松工場では、すでに愛知県で生産され た豊田式力織機が完全に運転を続けていました。そして鈴木権右衛門氏と共に三谷町海岸の近くに工場をつくり、織機50台を設備して、この地方としては最初の力織機運転を始めました。 (力織機は、浜松の高柳式を採用し、松井式石油発動機8馬力を原動機としていました。)約1年継続されましたが、たまたま火災にあい挫折してしまいました。明治43年(1910)小林礼 三氏は、自家使用中の牛田式足踏織機を改造し当時その道の技術に勝れていた鈴木政吉氏を招いて、約1ヶ月間で12台を改造し、動力運転に成功しました。動力には中山式石油発動機を 採用しました。足踏織機動力織機で、台当りの織上り反数は増えませんが、工女1人で織機3台を操作可能でなり、織物1反に対する生産費は大幅に減少しました。昭和2年(1927)に三 河染織試験場(現在の愛知県三河繊維技術センターの前身)が設立され織物の研究を重ね、海外見本などを集めた参考見本を製作業者に配布するなどの指導をしました。太平洋戦争開 始で休止状態になっていた織物業は、終戦後は衣料不足 等が影響し綿布は高値で大量に売れました。1948年(昭和23)からの数年は、「ガチャマン景気(ガチャンと織れば1万円 儲かる)」と呼ばれる景気に入り、蒲郡地方は「ガチャンの町」として全国的に有名になりました。そして、1973年のオイルショックの影響を乗り越え、幅広意味での繊維産業を目 指して回復を遂げようとしています。