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参 考 三河地方における木綿の歴史 |
桓武天皇の799年(延歴18年)7月、小舟にのって三河国幡豆郡天竺村(今の愛知県西尾市)へと
漂着した崑崙人が、綿の種一袋を伝えたと言われています。この事は、「日本後記」および「類聚国史」に記述があります。しかし、万葉集巻三に「しらぬびのつくし
の綿は身につけていまだに着ねどあたたかにみゆ」とあり、もう少し伝来した時期が古いのではと考える説もあります。 また続日本記の中には、「神護景雲3年(76 9年)3月に九州の太宰府から綿の貢ぎものを朝廷に奉っておる」という記録が残っています。しかし、「野語述語」 という本の中には、綿の種は途絶え、再度155 0年頃(永録天正)に琉球から渡ってきたという記述があります。当時の上流階級は衣服に絹が使用されていましたが、庶民の衣服は麻(大麻・苧麻 等)が中心でし た。綿布の利用は、衣料改善に役立ち、寒冷地を除いた全国に栽培が拡大しました。 縄文末期から弥生期の温暖な三河地方の衣料は、葛(くず)・山藤・山桑・大麻等 の野生樹木の繊維布でした。弥生期に稲作技術と同時期に「絹・苧麻」の植生繊維が 伝来し、生産されました。暖かくて柔らかい「絹」は、貢ぎ物として献上し、一般 庶民の衣服とはなりませんでした。苧麻も急速に発展しますが、この地方は良質の葛が多く野生していたことから、室町末期頃まで麻や苧麻を経糸に葛を緯糸に織 る布が庶民の衣布の中心でした。 また、古代より三河地方は繊維産業が盛んであったことが幾多の文献に現れます。 また、三河国は調(貢ぎ物)として羅・綾・絹白糸等を納めており、その絹は上質の ものとして珍重されていました。750年(天平勝宝2年)の「正倉院文書」・そ の2年後の「雑物請用帳」によると、貢絹をわざわざ「白絹布」と記しています。また 白絹布は、経糸・緯糸が精白な細糸で密度が濃い布で他国の絹より15%程は高く取引していたようです。また、9世紀の「延喜式」にも三河産の「犬頭白糸」は最上 の絹として、絹最上糸国の中で納品量は他国の倍以上の貢物と記述されています。そして、「犬頭白糸」(雪のように白く、光沢をおびた上絲であったことに由来)と 呼ばれ蔵人所に納められ天皇の衣服を織ったという記述があります。1510年(永正7年)頃、三河の木綿が奈良の市場で取引され、やがて綿作の技術は和泉・河内な どの畿内へ普及し始めました。そして江戸時代には、庶民の衣料としての麻は綿に変っていきます。また、苧麻は1反織るのに40日程ですが、木綿はその10分の1程度程で出来 た事も理由の1つです。綿の栽培は、米と並んで商品作物として経済の活性化に貢献し、庶民の衣服として定着しました。そして、糸を紡ぎ・木綿布を織る事が女性の手で日々行 われ、農民から下級の武士の家庭においても自給自足しました。 |