戻る 次へ


衣料としての棉作
棉種が日本に伝来する以前は、自生繊維時代と呼ばれ、衣服は全て自給自足でした。この時代は、 民衆の労働や現物の負担が国家財政の基礎でした。「大宝元年(701年)の律令体制」そして、「稲作の伝来」と「同時期に伝来した植生繊維の苧麻(良質の麻)」 と「絹の生産技術」がそれぞれ急速に進歩していきました。中世の一般の人々の衣料は、「布子」と呼ぶ麻の繊維を使用していました。当時は、絹はもとより木綿 も主に朝鮮や中国から輸入される貴重品で身に着けることは出来ませんでした。
国産木綿が文献に現れるのは、1510年代の記述で、興福寺大乗院に残っている「永生年中記」です。「三川木綿」と記された三河産の木綿が商品として出回っ ていたと書かれています。そして、1510年代に三河で作られた木綿が、奈良の市場で取引される様になり、やがて棉作の技術は和泉・河内など畿内にも普及し て行きます。1573〜1614年代頃には、木綿が庶民の衣料材料として麻にとって代わります。絹着の禁止は、江戸期になって一層厳しくなり、百姓の衣料に 関して「庄屋は、妻子共絹袖布木綿・脇百姓は布木綿許可着巣之」と記述される文献も残っています。また、1649年の御触書には「百姓は衣類の儀、布木綿よ りほかは帯・衣裏にも絹つつまじき事」と記述が残っています。
棉作を開始した農家は、当初は収穫したままの「実棉」または種を取り除いた「繰棉」として換金して残りを家族用に織る程度でしたが、やがて換金のための木綿 織りを始め出します。農家は、収入を求め畑だけでなく田にも棉を栽培し始めます。これによって米の減収を恐れた幕府は、畿内に「田方木綿作禁止令」を発布 (1942年寛永19年)します。 しかし、1688年〜1763年には多くの絹織職人が木綿織りを始め、木綿生産は急成長し、江戸後期には、名産品となる木綿織物産地が構成されます。 足利木綿・有松絞り・和泉木綿・伊予絣・岩国縮・阿月絣・河内木綿・管大臣絣・久宝寺木綿・熊谷木綿・久留米絣・小倉織・佐織縞・佐々絣・佐野木綿・播磨絣 ・荒川木綿・丹波木綿・知多木綿・播州木綿・尾州木綿・真岡木綿・松坂木綿・三河木綿・柳井縞・結城木綿・大和木綿 等 産地を模した名称が付けられました。 そして、産地ごとに土地の気候風土に適した棉が栽培されていきます。よって「和棉」と言っても産地毎に異なった種類が存在しています。各地で栽培される棉は、 棉花の色や繊維長も少しずつ異なります。

江戸中期の「和漢三才図会」による棉の質は以下の様に分類されています。
1、伊勢・松坂
2、河内・根津
3、三河・尾張・紀伊・和泉
4、播磨・淡路