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日本への伝来
「日本後記」および「類聚国史」の記述に、「桓武天皇の時代に799年7月、小舟にのって三河国幡豆郡天竺村(今の愛知県西尾市)へ漂着した崑崙人 (インド人)から棉実一袋が伝えられた」とあります。しかし、万葉集巻三には「しらぬびのつくしの棉は身につけていまだに着ねどあたたかにみゆ」とあり、続日本記の中には 「神護景雲3年(769年)3月に九州の太宰府から棉の貢ぎものを朝廷に奉っておる」という記録が残っています。しかし、この時の棉の種は途絶えてしまいました。しかし永録天 正の頃(1550年代頃〜)に、再び琉球から渡ってきたという説が「野語述語」に記述されています。 また、他の史実によると「最初に伝来した棉実は、紀伊・淡路・讃岐・伊予・土佐・太宰府などの温暖な地で栽培されたが繁殖せずに途絶えた。」とあり、再度15世紀中頃に明国 (現中国)棉種が朝鮮経由で改めて輸入され、中部地区以西に普及したと書かれています。
次に国産の木綿が文献に現れるのは、1510年代の記述で興福寺大乗院に残っている「永生年中記」です。その中に、「良質の草棉で木綿が織られ、地藍やウコンで堅牢な染 色がなされていた」とあり、年貢として三川木綿を収めたと記述されています。やがて西日本から種子が関東まで広がりを見せ、「三浦木綿」へと拡大して行きます。室町時代 の後半に種子が再度輸入され定着し、大規模な棉作・綿織が始まります。そして、江戸時代に入り、栽培は寒冷地を除く全国に広まり地方によって独自の棉織物が発達します。
明治維新後、海外からの安価な棉や糸の輸入など様々な理由から和棉の栽培は衰退していきました。これ以降は、安く大量の棉製品を生産する為に、原料とする棉は中国等から 輸入し、日本国内での棉作は次第に衰退しました。再びワタ栽培が盛んになったのは、第二次世界大戦末期で日本への輸入物資が途絶えた時期です。敗戦後、昭和三〇年代に入 ると安価な輸入棉に再度おされ、急速にワタ栽培は衰退します。そして、和棉のタネも絶滅する様になりました。
様々な文献によると木綿産業へ安定定着した時期が下記の様に書かれています。
『三河』 永正7年(1510)
『九州』 弘治年間(1555〜1557)  
『近畿4国の河内・摂津・泉・播磨』 天正年間(1573〜1591)  
『武蔵』 天正8年(1580)  
『大和』 天正16年(1588)  
『甲州』 文禄3年(1564)  
『土佐』 文禄4年(1595)