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純和棉とは
799年に大陸から渡来した最古の棉で、外来種棉と交配していない棉を純和棉と呼びます。 純和棉は、比較的低温でもよく育ち、日本綿(和棉)とも呼び、明治の中頃まで盛んに栽培されていました。その繊維は、短く太い短繊維種綿で、紡いだ糸や布 には独特の弾力と厚みがあり、夏は湿気を吸収・冬は空気を含んで温かい性質を持っています。これらの特徴は、湿潤な日本の気候に適しています。また栽培 の北限は、仙台・会津.新潟あたりで、五〜十月頃までの気候が温暖・一般的な夏野菜が栽培できる場所であれば、充分栽培する事が可能です。
江戸時代には、東北以南の各地の農村で稲作に匹敵するほど重要な農作物として栽培されていました。「畑でワタを育て、糸を紡ぎ、ハタを織る事」は、農村の 中では日常風景でした。棉から布になるまでにも多くの手作業による工程が必要となりました。こうして出来た着物は大切な財産として穴があいたら継ぎを当て 着継がれ、着られなくなれば裂き織りの糸として使用され何世代にもわたり大切に最後まで活用していました。 このような衣やワタに対する状況に変化を与えたのは、明治中期以降の産業革命の中で機械の登場です。
これ以降、安く大量の綿製品を生産する事が目的になり、 原料とする綿は中国等から輸入し、日本国内での綿作は次第に衰退しました。再びワタ栽培が盛んになったのは、第二次世界大戦末期で、日本への輸入物資が途絶 えた時期に重なります。そして、敗戦後の昭和30年代には、安価な輸入綿に押され急速にワタ栽培は再度衰退します。そして、和綿のタネも絶滅する様になりました。

注:機械の「機」はハタのことで「械」はからくりを意味します。

注:以下の様に「柳田国男」が書いています。
昔の日本人は、木綿を用いぬとすれば麻布あさぬのより他に、肌につけるものは持ち合わせていなかったのである。 木綿の若い人たちに好ましかった点は、新たに 流行して来たものというほかになお少なくとも二つはあった。第一 には肌ざわり、野山に働く男女にとっては、絹は物遠ものどおく且つあまりにも滑らかでややつ めたい。柔かさと摩 擦の快さは、むしろ木綿の方が優まさっていた。第二には色々の染めが容易なこと、是は今までは絹階級の特典かと 思っていたのに、木綿も我 々の好み次第に、どんな派手な色模様にでも染まった。そうしていよいよ棉種わただねの第二回の輸入が、十分に普及の効を奏したとなると、作業はかえって麻より も遥かに簡単で、僅わずかの変更をもってこれを家々の手機てばたで織り出すことができた。そのために政府が欲すると否とに頓着とんちゃくなく、伊勢いせでも大 和やまと・河内かわちでも、瀬戸内海の沿岸でも、広々とした平地が棉田になり、棉の実の桃が吹く頃には、 急に月夜が美しくなったような気がした。麻糸に関係あ る二千年来の色々の家具が不用になって、後のちにはその名前までが忘れられ、そうして村里には染屋そめやが増加し、家々には縞帳しまちょうと名づけて、競うて 珍しい縞柄 しまがらの見本を集め、機はたに携わる人たちの趣味と技芸とが、僅かな間に著しく進んで来たのだが、しかもその 縞木綿の発達する以前に、無地を色 々に染めて悦よろこんで着た時代が、こうしてやや久しくつづいていたらしいのである。