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元禄年間(1688〜1703)に多くの綿種が外国から輸入され、次第に関東から西の諸国に繁殖しました。従来の一般庶民の衣料原料で あった麻・苧麻・楮・葛 等の栽培は圧迫されていきました。要因としては、綿作の価格は苧麻に比べ相当高価でしたが、織物を仕上げる労 働力は木綿の方がはるかに安価で、織物としての価格は綿織物が安く出来たことによります。また、木綿は冷寒を防ぎ、繊維も太く丈夫でした。 よって、農家の婦女子は自作の綿花で家庭用の綿布を織り、余剰のものは販売する事で一家の収入の一部とするようになりました。 例:愛知県の知多地域は、山が海に迫り温暖であるが土地は狭く干害被害も多く、人口密度も年々増加し農地は細分化され貧農化していました。 よって、副業として綿業は生活に期する所が大でした。この地方の歴史的背景・地理条件を基盤に発達した綿業は、農家の家内工業として営まれ ていましたが、次第に商品として生産化の過程を辿っていきます。元禄時代頃からは、「棒手振」と呼ばれた綿布の小買人が村々を廻り、綿布を 2反・3反と買い集めていきました。彼等は、買い集めた綿布を一定の仲買人に売り込み、買継商は90反を1梱として中継地から集散地の問屋に納 めていたそうです。この地方の木綿織物は、仲買商から幡豆郡荻原村(現吉良町)買継商の糟谷縫右衛門に引き取られ、平坂・大浜港から船積 みされ、江戸の木綿問屋に送られました。糟谷家は、木綿の他に、肥料の干鰯・米・味噌・煙草・酒等を扱う大問屋であった(今も糟谷邸は残 り、吉良町の史跡として公開されている) また織物としてではなく、繰綿・のし綿あるいは実綿のまま買取られ、塩と同じように馬に乗せら れて、信州や各地に売られていました。 機織工場へ変遷と衰退 鎖国が終了し、英国から機械生産で規格が統一された安価な綿織物が大量に輸入され、日本の伝統的な綿織物は混乱し、倒産が相次ぎました 。当時の薩摩藩 島津斉彬は、造船・製鉄・電気・ガス・砂糖などの洋式工業を積極的に導入し、最初の洋式紡績工場「鹿児島紡績所」を慶応3年 (1867)に設立しました。明治時代になると、外国綿糸の大量輸入により国内の綿糸生産が圧迫されるようになり、危機感を持った明治政府は明治 11年(1878)、英国マンチェスターからミュール2,000錘紡績機2台を購入し、官営紡績所を設立し次々と官営工場を設立し、民間に払い下げました。 |