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そして、貧困家庭の子供12−13歳が工場の全寮制の寄宿舎に集められ、結婚適齢期まで働く環境が出来ました。 技術習得を目的として多数の女工が働いていましたが、女工の給金は男性の4分の1程で、その大半の労働条件は 過酷であったようです。明治中期頃には機械紡績の導入は、簡単な操作で大量生産が可能になり、安価な綿糸がも たらされ、綿作や手紡糸は衰退して行きます。機械紡績は、綿織物の輸出高が明治42年に輸入高を越えるよう になりました。昭和初期に綿布の輸出高は、イギリスを追い越し世界一になりました。綿織物業は、近畿・東海地 方を中心に発達し、織布を含めた大きな綿紡績会社として設立しました。生糸を原料とする絹織物業は、西陣・桐 生・足利・八王子・伊勢崎・博多で主に国内向きの絹織物がつくられ、北陸地方では主に輸出向きの織物がつくら れました。 幕末の鎖国が終わり、開港された港に外国から輸入された綿や綿糸が流通しだすと次第に綿栽培地は衰退していき ました。さらに明治になって綿花の輸入が自由化されると、綿作地帯は日本から消えていきます。しかし木綿織業 は、安い輸入綿糸でそれまでに培った技術をフルに生かし優秀な織物を織って国際競争に打ち勝って行きます。 綿織物業を代表とする軽工業は、明治の産業発展を支える原動力になって行きます。綿・絹を中心とした繊維工業 の発達は非常に早く、生糸・絹織物・綿糸・綿織物は太平洋戦争前まで日本の輸出の中心でした。 注:明治15年、渋沢栄一らの主唱で、大阪に近代的設備を備えた大阪紡績会社(現・東洋紡) が設立され、これが 刺激となり、明治19(1886)年から明治25(1892)年にかけて、三重紡績、天満紡績(いずれも現・東洋紡)、 鐘淵紡績(旧・鐘紡)、倉敷紡績、摂津紡績、尼崎紡績(いずれも現・ユニチカ)など20に及ぶ紡績会社が次々と設立されま した。大阪は「東洋のマンチェスター」とよばれるようになり、その後、日本は世界最大の紡績大国に成長していきます。 注:自動織機は、明治30年に静岡県の豊田佐吉によって豊田式自動織機が発明された事が綿織物業を発展させました。 |