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綿栽培が盛んだった地域
綿栽培が盛んだった河内中・南部や和泉では、全耕地面積に対する綿作の比率は40−60%に達していたようです。 この地域では、1751年頃を最盛期に、明治29年(1896)に綿花輸入が自由化されるまでの長い間、綿はもっとも重要な商品作物として栽培されました。綿は、「排水のよい砂質の土壌」・「開花期の高温」・「開絮期(綿実が熟して吹き出る事)は乾燥」が必要と言われます。

綿栽培が盛んだった地域の例では、
1)河内中・南部や和泉は、全耕地面積に対する綿作の比率は、40−60%に達していたようです。そして、宝暦(1751-64)頃から明治29年(1896)に綿花輸入が自由化されるまで、 綿はもっとも重要な商品作物として栽培されました。河内では、宝永元年(1704)大和川付け替えで新田開発が行われ、この新田が川床であった事から稲よりも綿の栽培に適していました。 また、河内国の一農家の史料「稲作と綿作の比較」に「綿作は、稲作の平均二倍以上の収益をもたらす年もあった」という記述があります。肥料代等の諸経費は、この史料には明記されてい ませんが、綿作の1反当りの収穫量は多かったようです。

2)摂津の西部・武庫川の東岸や川下の新田地帯(尼崎市)では、享保末期から田畑への綿作率は平均28−29%で、多い村になると50%以上の田畑で綿を育てていました。

3)播州地方では、特に加古川地域一帯の平野部で綿作が行われていました。

4)1640年代頃には、東海道の宿場町である「池鯉鮒宿の店先で木綿が売られていた」と資料に記載されています。綿の生産は、矢作川下流にあたる碧海郡が盛んでした。やが て、生産地は三河湾に面した平野部に広がっていきました。当時は、綿作と木綿織生産が農家で行われていました。木綿織物は、農家の女性の夜なべ仕事や農閑期の仕事で過酷であったと伝 えられています。

5)享保20年(1735)に甲府盆地西部の甲斐(御勅使川扇状地を中心とする地域・釜無川氾濫原の甲西町・竜王町などの地域)や吉田村(櫛形町)では、耕地面積の36パーセント が綿の栽培地で、文化11年(1814)には47%にまで増加したそうです。西野村(白根町)でも、寛政元年(1789)28%でしたが、慶応4年(1868)には65%まで作付けが増加します。南湖 (甲西町)では、綿が育つ条件「夏季の高温・小雨・砂土または礫質砂土の土壌 等」が揃い、夏作として畑全体に綿作を行っていたようです。