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縄文人の衣料品としてのアンギンは、弥生時代に綜絖の伝来した事で織物が導入され、編物よりもはるかに精巧な布を作る事のできる織物が衣料品の主流になります。そして、編物は急速に衰退し、丈夫さや厚さなどの特性を生かした特殊な用途に限られて細々と技法が伝えられました。一例として、時宗の僧侶が身に纏ったアンギンの法衣です。700年ほど前、時宗を始めた一遍上人は、遊行のための野宿の夜衣などに兼用したと思われるアンギンの法衣を着ていた事が「一遍上人絵伝」の挿絵などから推察されるそうです。現在、柏崎市専称寺など全国9か寺の寺院にアンギンの法衣が残り「阿弥衣」と呼んでいます。 戦国時代になると人々の衣料は、麻の繊維で作った布で「布子」と呼ばれるものでした。当時、絹や木綿は朝鮮や中国 等から輸入される貴重品でした。しかし、東北地方で米の採れない農村では、明治時代になるまで麻(大麻オオアサ)の服が日常着で女性が麻を編む厳しい生活でした。古い文献には、日本で麻といえば大麻の事を指し、苧麻は細紵(さいちょ)や麻苧(あさお) 等 と記述されています。また、苧麻で織った織物は、麻ではなく「布」と呼んでいました。苧麻も大麻も日本中で栽培されていましたが、律令国家が成立し租庸調制度が確立されるに従い、大麻より苧麻のほうが付加価値高い品質の布を作る事が出来きたことから、大麻は自家消費・苧麻は貢納用と区別がされていきます。現在も残っている上布は、貢納用の名残と言われています。また、夏の法衣などに使われている布は、全てが苧麻となっています。亜麻は、元禄年間に伝来し、武州王子附近の薬草園で薬用栽培・種子の採取目的に栽培されたと伝えられています。そして、明治7年に駐露公使榎本武揚が開拓使長官黒田清隆に亜麻の種子を送り、北海道で試作させたと言われています。 注:カラムシ イラクサ科の多年生植物で別名「苧麻」とよばれています。日本にも自生し道端などに雑草として見る事が出来ます。昔は丈夫な繊維が採れる事から青苧(あおそ)と呼ばれ、衣類・紙・漁網に使われていました。 注:遺跡から出土した編物 全国の縄文時代の遺跡から編物の遺品は出土しているが、織物の残欠は発見していない。 北海道斜里町朱円遺跡(縄文後期)、 北海道小樽市忍路土場遺跡(縄文後期) 青森県木造町亀ヶ岡遺跡(縄文晩期)、 秋田県五城目町中山遺跡(縄文晩期) 山形県高畠町押出町遺跡(縄文晩期)、 宮城県一迫町山王遺跡(縄文晩期) 福島県三島町荒屋敷遺跡(縄文晩期)、 石川県金沢市米泉遺跡(縄文晩期) 福井県三方町鳥浜貝塚(縄文晩期) 等 このうち最も古いのが鳥浜貝塚で、約6.000年前の縄文時代の前期の地層から編布が出土しています。これらの異物の素材はアカソ・からむし・イラクサなどで、組織は「越後アンギン様編布」だと報告されている。これらの出土資料によって、縄文人の衣料の主流はアンギンであり、数千年の長きにわたって伝承されてきた技術であることが判明しています。 |