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銘 仙 (めいせん) |
銘仙とは、先染めの平織りの絹織物です。銘仙の源流は、屑繭や玉繭からとった太い糸を緯(よこ)糸に用いた丈夫な縞織物(太織)で、秩父周辺の養蚕地帯の人々の自家用のものでした。 玉糸・紡績絹糸などで織った絹織物で、縞柄・絣(かすり)柄などがあり、着尺(きじゃく)・夜具地などに用いられました。 ー銘仙の歴史ー 銘仙の歴史をたどればその産地である伊勢崎や秩父の織物の歴史にたどり着きます。(桐生、 伊勢崎、秩父は織物の産地)その歴史は、伊勢崎では天照大神、秩父では第10代崇 神天皇、 桐生では第47代淳仁天皇まで遡ると言われています。それらは伝説として語り継がれて、いずれにしても古い歴史を背負っています。 銘仙は、この地方で長い年月を掛けて創られたもので、我々が目にしている銘仙は何時の時代に出来たのかは不明です。18世紀末に書かれた『天明版絹布重宝記』という書物には銘仙に ついての記述があります。但し、この書物には「銘仙」ではなく「目専」と記されています。実は「目専」が「銘仙」となったのは明治以降の事です。それまでは「目専」「目千」「綿繊」 または「銘撰」と呼ばれていました。そして、「もとは太織にて茶地紺縞、或いは茶紺地鼠縞等種々ありたり。」と明記されています。「太織」というのは「熨斗糸」と呼ばれる「玉糸や屑 糸」で造った太い糸を緯糸に使った織物です。養蚕農家の人々が自家用に造っていたものでした。 「熨斗糸」というのは、良質の生糸を 採った後の屑繭から造られる固い糸で、太さが一様でなく質の悪い糸でした。そして、その名前である「目専」については、「即ち織目の堅牢を専一と し、外観の美を行わざる実用向きの義より出でたる語なるもの の如し。」と記されています。当時の「目専」は伊勢崎、秩父地方の実用的な織物で後の銘仙とは少々違っ た織物だったそうです。 その「目専」が注目されたのは、天保の改革以降です。水野忠邦による天保の改革(1839年)で倹約令が出され、人々は質素なきものを着る事を余儀なくされました。その質素な素材と して「目専」が注目され江戸で大流行したのです。「熨斗糸」で織られているにも関らず、もてはやされたのは、天保の改革という時代の反映ですが、伊勢崎、秩父の織物の高度な織物技術 によるところが大きかったと言われています。 明治に入ると縞柄が織られるようになり、糸も「熨斗糸や玉糸」ではなく、「細玉糸や紡績糸」が用いられるようになりました。さらに大正に入ると絣柄の絣銘仙が創られます。そして大正 中期には「ほぐし織」という銘仙独特の技法が開発されて、いわゆる銘仙柄が確立します。大正時代には和服にも西洋化の波が押し寄せ、洋花やアルファベットなど描いた友禅も創られるよ うになりました。伊勢崎でもその例外ではなく、西洋の大胆な柄や鮮やかな色が取 り入れられるようになり、模様銘仙として大流行していきます。昭和初期には普段着、おしゃれ着として 着られ絶頂期となります。 |