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羽 二 重
羽二重(はぶたえ、英: habutae silk)は、平織りと呼ばれる経糸(たていと)と緯糸(よこいと) を交互に交差させる織り方で織られた織物の一種です。古くは帛(はく)と呼ばれました。絹を用いた場合は光絹(こうきぬ)とも呼ばれます。羽二重という名称が一般に使われ始めたのは慶長期の頃と伝えられています。古くは「光絹」・「光繒(こうそう)」という字をあてていました。経糸(たていと)と緯糸(よこいと)を交互に、規則的に製織した織物を「平織り」または「平もの」といいます。1本の経糸を、細い2本に置き換えて製織した平織物を羽二重と呼び、(1筬羽(おさは)経二重を表します。)薄くても丈夫な織物になり、二枚重ねると光りのハレーション(干渉)により、独特の木目模様が浮かびます。
― 歴史 ―
最初に文献に現れるのは、慶長10年(1605)に前田侯から将軍家へ贈った進物の中で、「加賀羽二重」と記載されています。当時は、珍貴な品として上層階級の人々の贈答品として使われていたようです。厳選された純白の繭のみ使用し、丁寧に節取りをして、歪みなく織り上げた平織りで、光るような真っ白い、すべすべした若き乙女の柔肌のようであったと伝えられています。しかし、使用された糸は太く、かなり厚手の絹織物であったと推測されています。羽二重が市中に出回ったのは、元禄時代(5代綱吉 1700)と思われます。「翁草」の著書の中に、「京都銀座、中村内蔵介の妻の衣装くらべ」という話があります。(絢爛豪華な衣装の中で、清楚な黒染め羽二重に身を包んだ女性が、次々と羽二重の衣装を脱ぎ披露して、周囲を圧倒した話)元禄時代は経済が豊かになり、豪商が輩出するにつれ、幕府から美服禁止令や呉服類売買の規制が出てくるようになった時代でした。 
通常の平織りが緯糸と 同じ太さの経糸1本で織るのに対し、羽二重は経糸を細い2本にして織る為、柔らかく・軽く・光沢のある布となります。白く風合いがとても良い事から、和服の裏地 として最高級で礼装にも用いられる日本を代表する絹織物です。また、近世から始められたと伝わっている伝統的な織物です。明治10年頃から京都や群馬県桐生など で機織り機の研究が進められ、明治20年頃には福島県川俣、石川県、福井県などで生産される様になりました。
明治時代、日本の絹織物の輸出は羽二重が中心であり、欧米に向けてさかんに輸出され、日本の殖産興業を支えました。羽二重は「国内向け」と「輸出向け」があり、 輸出されるものを「輸出羽二重」と呼びました。明治4年、「五箇条の御誓文」の草案者である旧藩士の由利公正が欧州から絹織物数種を持ち帰り、福井の有志に見せて新しい絹織物の考案を依頼した事から、羽二重 製織の技術研究が始まりました。そもそも一年中いつでも昼と夜の乾湿の差が少ない福井地方は、絹織物製織にはまさに最高の条件を備えた土地でした。明治20年頃 には技術の基礎も確立し、福井県産絹織物の輸出量は、大正初年から半ばにかけては日本全国の60%を占めるに至り、名実ともに世界一の生産地となったのです。縦糸 (タテイト)、緯糸(ヨコイト)に撚り(ヨリ)がなく、筬(オサ)(縦糸の位置を整え,緯糸を織りこむのに用いる織機の部品)の一羽(ひとは)に縦糸を2本を 通した平織物を羽二重と呼びます。福井の羽二重は、緯糸を水で濡らして織っていく「ぬれよこ」と呼ばれる製法を用いる為、地合が引き締まり丈夫になります。また 光沢があって美しく、風合いが羽のように柔らかいという特徴があります。「胴裏、羽裏、比翼地、長襦袢、石持」として全国に流通しています。また最近では、雑貨用や美術工芸用、又衣料の分野でも健康衣料として大活躍しています。絹の 良さは「羽二重に始まり羽二重に終わる」と言われますが、福井でつくられる羽二重は最上の絹織物と評価されています。