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― 参 考 ―

(1)越後上布と小千谷縮
越後地方では古くから上布の生産が行われ、天正年間(1573年~1591年)に上杉氏が苧麻の栽培を奨励した事により、越後上布の生産は盛んになりました。 その後、寛永10年(1670年)、明石藩の浪士堀次郎将俊が、小千谷に移住し、緯糸に強い撚りをかけて布を織り、仕上げで布に縮(しぼ)を出す事に成功し ました。これが、「小千谷縮」の起源と伝えられています。そして、縞や花模様や絣(かすり)を織り出す工夫が加わり、苧麻の手績糸を地機で織り、雪晒し を行って仕上げた織物は、昭和50年に「越後上布」「小千谷縮」として重要無形文化財の指定を受けました。(上布と縮布の違いは、縮布が緯に強い撚糸を使 う点で、それ以外は原料、作り方 等 同一)

(2)近江上布
京都の職人が、鎌倉時代に近江へと移り住んで技術を伝えました。江戸時代に入り、彦根藩の保護政策で農家では副業として着尺地・蚊帳地等を盛んに生産し、 近江商人が全国に売り歩いて有名になりました。また、昭和52年に伝統工芸品の指定を受けました。その技法は、生平(きびら)は経に苧麻糸もしくは手績み 大麻糸を使い、先染めの平織り、絣糸の染色は櫛押捺染または型紙捺染によると定められています。現在、愛知川を中心とする湖東地区で、着物・服地向け 上布・ふとん・座布団・シーツ向け縮 等が生産されています。しかし、手績糸は影を潜め、苧麻糸(紡績糸)使いが主体となっています。

(3)能登上布
能登地方は、平安時代から苧麻を栽培し、江戸時代中頃まで近江上布向けの原料としてきました。1814年の近江から職人を招き、その技法を導入し能登上布の 生産を始めました。また、能登縮または安部屋縮(出荷港の名)とも呼ばれました。主な産地は、石川県鹿島町・鹿西町・羽咋市等で、明治初期には麻織物の 生産全国一を誇り、昭和35年に石川県無形文化財の指定を受けました。
能登上布は、海晒しの技法を使用した麻織物として有名です。「海晒し」は、織り上げた布の糊を落とすために海水へ一昼夜漬けては乾かす作業を4~5回繰り 返した後、欅製の臼に数反ずつ入れて桐の杵でたたき、次に晒し桶でお湯をかけながら足でよく踏み、4~5時間寝かせた上で海水に拡げ、布を膨らませながら よく晒し、真水で十分濯いだ後海岸の岩場で天日に晒しています。能登上布の特徴は、各種絣柄があり、この絣糸の染色には板締め、櫛押し捺染、ロール捺染、 型紙捺染の手法が使用されることです。