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3. 鳥取の天蚕糸

 一九八八年に島根県の染織家、青戸さんの紹介で鳥取と技術交流を含めた糸の取引が始まりました。鳥取は比較的早く繭生産を始められた県で 、我々と交流が始まる以前は、繭の状態で県の経済連合会を通じて京都の丹後の方へ出荷されていたようです。 天蚕組合の代表の方が、各地の産地をまわられた結果、いずれ繭生産だけでは各産地で繭が余る事になると考えられ、繰糸までやって糸にし なければと、県の指導で繰糸を研究され、糸にされた意欲的な組合でした。
 一九八七年産の繭の糸約三・五kgは、青戸さんと私の友人の京都の織屋さん、私の糸販売先で全部消費できました。 一九八八年に繭の糸は、災害による不作のため、予定の一〇Kgを大幅に下回る六Kg強になり、三人で消費するには足らずに、私は不足分を中 国産で八Kgほどおぎない、糸注文に応じました。
 鳥取の目標は、毎年倍の最終三〇Kgの糸量でした。三〇Kgという生産量は、穂高とは別の天蚕産地ができた事になりますし、村や町のPRに一 役かえる数字といえます。 しかしそこには、使用する側の数量と価格の関係が生じます。特に異常といえる糸価格は、生産者の方の生産効率からすれば当然と考えられ るのですが、使用する側、その先の織物をお買いになる方達に理解していただける価格ではないのです。 この価格の距離をうめるための努力が、生産者の方の繭増産努力による繭コストダウンであり、我々の繰糸技術の指導による繰糸コストダウ ンであり、製品開発努力であり、私もそのために鳥取との往復が始まりました。


4. 天蚕の繭生産上の問題点

(イ) 事業として
全国各地の生産がそうですが、穂高町の天蚕事業を参考に始められ、町・県・国も推進して来ました。一九八五年の新聞には穂高町の天蚕糸 の価格が一Kgあたり一〇〇万円とでています。繭価格も、おそらく一粒一〇〇円すると思います。 糸の流通は穂高町と特約している京都の特定の白生地商社であり、我々糸商のところで流通する事はほとんどない、きわめて糸量の少ない、 特殊な流通ルートの糸なのです。  新聞には一〇〇万円と出ていますが、その商社が一〇〇万円で買ったという保証はありません。たとえ一〇〇万円としても、そこに生産総量 を加えて、総事業量として総合的に考えた時、二〇Kgの天蚕糸が生産されたとしても、二千万円の町や村の事業にしかならないのです。二〇Kg の生産量がある県は、今のところほとんどないと思います。一〇Kg糸でも、新しい産地には大変です。