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参考:豊橋の蚕糸系譜

1930年 
世界恐慌に伴い生糸相場の暴落により蚕糸業は退勢し始めます。

1931年
満州事変が勃発
 
1937年
日中戦争へ拡大

1940年 
国有生糸にも配給制が実施され、統制が直接生糸に及びます。

1941年
蚕糸業統制法が公布され生糸と製糸業を全面統制し、企業合同と釜数の整理を全国の業者に強制し、太平洋戦争に突入していきます。

1942年
企業整備令の公布により豊橋市内の器械製糸工場は29、設備釜数は3209以下に激減し、権利の譲渡や買収が行われ、大資本系列に吸収されていきます。

1944年
製造会社設立後にはわずか3工場507釜へと減少し、1941年に437業者あった座繰(足踏)業者は統制下では座繰共同施設組合により原料の配給生糸の買上げを受けますが、1945年には68業者に激減しています。

1945年
6月19日夜半から20日未明にかけて豊橋の空襲により市街地は壊滅した。全戸数の70%が焼失、工場はほとんど灰となります。

1960年代以降 
戦災によって豊橋製糸業は全滅的被害を受けますが、一部の焼失を免れた工場では操業を再開しました。しかし戦後、繭生産と製糸設備のバランスが崩れた為に原料繭不足に陥ります。その後、朝鮮戦争による一時的な好況も手伝い 器械製糸については、14工場までが操業を行いますが、1960年代に豊橋の器械製糸は消滅します。