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参考:玉糸製糸の機械について
豊橋では座繰り器は、「だるま」と呼ばれています。豊橋に現存する玉糸の繰糸機は、豊橋民俗資料館に展示されています。これは、豊橋市松山町の清水製糸場で使用されたもので、天和紙式座繰り器を動力駆動に改良を加え連結した繰糸機械です。 一般的な生糸の座繰りは、鍋で繭を煮沸して糸を繰り、数本集めて1本の生糸にし、この束ねた生糸を女工の側面いある糸枠に巻き取ります。一方玉糸の座繰りは、繭を煮沸する鍋の左横に糸枠を置いて上州式の座繰り器に似ています。小渕志ちは、 上州生まれであった事から玉糸繰糸機は、上州式を参考にしたと言われています。そして、玉糸は頻繁に糸を繋がなければなりませんので糸枠は左に置いた方が作業の効率が良かったとも言われています。


参考:機械製糸に尽力した朝倉仁左衛門 達(参考 豊橋の歴史 平成8年)
明治三年に羽田野 敬雄(ハダノタカオ)が「参河国養蚕由来記(ミカワノクニヨウサンユライキ)」で三河地方での養蚕の重要性を記しています。
三河地方で初めて、明治8年4月に蚕種業専門機関としての豊川組が、柴田豊水・小久保彦次郎が中心となり立ち上がります。組合は、各自で桑を栽培し、蚕を飼育して出来た繭を組合で集約し出荷販売していました。もう一人のキーパーソンは、渥 美郡上細谷村庄屋の朝倉仁左衛門です。彼は、開国後の生糸の需要を見越していました。そして、明治に入り長野県産の桑畑を村に広めますが蚕業の厳しさに直面します。そして、明治9年に実弟小柳津忠民・柴田豊水らと一緒に豊橋本町において、 「50人繰り規模」の座繰製糸を始めます。然し半年で閉鎖してしまいます。やはり、信州と比べて技術的に劣っていましたが豊橋での「製糸業の初め」だったと評価されています。
明治10年に、「赤心組」を仁左衛門を中心として設立、30人程の組合員で蚕を共同飼育し、収益を製糸業の創設費用とします。そして、上細谷村で伝次郎と協力し「座繰製糸」を開始します。この組合も、やはり技術不足で閉鎖となります。一方、 彦次郎は豊水・忠民 等と東東田に「50人繰り」の座繰製糸場を開設しますが閉鎖されます。この要因は、交通の不便さから間接取引を余儀なくされた為でした。(横浜への製品輸送には名古屋の焦点を経由していた。)解決の為に、明治16年名古 屋へ「中央市場」を進出しますが改善されませんでした。
これらの失敗を踏まえて、仁左衛門達は長野県などへ視察を繰り返し、座繰製糸の生産能力では品質・販売量が賄えず「機械製糸」の重要性を認識します。明治12年、農商務省の協力を得て、良家の子女を豊橋地方から選別し「群馬県官営富岡製糸場 」へ派遣します。明治13年、蚕糸経営の研修に広田辰次郎・前田桂次郎を「福島県二本松製糸・三春三盛社」へ派遣します。派遣が終了した明治15年、愛知県で第一号となる株式会社「細谷製糸会社」(資本金5千円・社長 朝倉仁左衛門・支配人  前田伝次郎・工場監督 広田辰次郎・前田桂次郎)を上細谷に設立します。「細谷製糸会社」は、本格的な機械製糸工場の草分けとなります。工場の動力は、当初水力利用でしたが、明治10年蒸気機関に転換し女工40人で「50人取り」規模の工場 を稼働させます。しかし、3年程で苦慮時期を迎えます。理由は、繭保管・製品品質保持・販路・政府の財源引締め 等が挙げられるそうです。明治20年にようやく全国的に器械製糸の基盤が整い、明治26年に細谷製糸株式式会社として復活します。 明治27年に「20人取り」、30年に「102人取り」、42年に「122人取り」と発展して行きます。

日本における資本主義の発達は、その他の動きも活発にします。
・明治20年代には、農家による「座繰製糸による副業」が盛んで各地で農家が集まり組合を設立させます。
・明治29年には、豊橋製糸株式会社(三浦碧水・遠藤安太郎 等)・三河製糸株式会社 等が設立します。
上記の様な製糸会社が設立と発展は、全国生産量において31年 全国8位、39年 全国4位 へと大正・昭和初めの基盤を確立して行きます。