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「蚕都豊橋・軍都豊橋」としての歴史 |
明治2年(1869)、当時の吉田藩から「豊川(とよがわ:河川名)に架かる橋=>豊橋(とよばし)」の名をとって「豊橋(とよはし)」と改名します。明治4年に豊橋県と改名しますが、額田県として統廃合、明治5年に愛知県に合併されました。 明治22年(1889)愛知県で市制・町制が施行された事を受け「豊橋町」が誕生しました。明治39年(1906)に豊橋町は、周辺の花田・豊岡2村を統廃合し、「豊橋市」として全国で62番目に市制を施行しました。明治21年の東海道線開通に 伴い豊橋駅が開業し、大正14年(1925)に市内電車が開通します。明治27年に電気が、明治41年にガスが引かれました。インフラの整備が整ったことで、「歩兵第十八聯隊など軍隊の設置による軍都」と「盛んであった養蚕業による蚕都」 としての特徴を備えました。(殖産興業策の一環として第八国立銀行が設立・県立第四中学校(現在の県立時習館高校)が開設。) 生糸生産は、明治維新以降に国内需要が増加し、日本における重要輸出品目にまでに発展します。この背景には、明治政府が実施した「製糸業への奨励政策」が大きく関わっているようです。また、農民及び俸禄が無くなった氏族華族を救済する目的 もあったようです。 東三河や尾張北部地域おいて、養蚕地帯で生産される繭を用いた製糸業が、盛んになった要因は、「渥美半島や豊川流域の河岸段丘・犬山扇状地など、特に地下水位が低く水田を開けない地域であった」・「養蚕は唯一の現金収入源であった」の2つ と考えられています。そして、製糸業・織物業の軽工業が栄えた土地に変化して行きます。これらの軽工業は、明治以降の日本の発展を支えた産業でも有りました。そして、木棉は、近世から尾張西部の島畑地帯や知多半島で栽培され綿織物業が栄え、 明治以降は外綿を使用し、一宮・尾西地域は第一次世界大戦後には毛織織物へ転換して行きます。現在においても織物業は、愛知県の重要な産業の一つとして位置付けられています。 明治17年(1884)名古屋城内に設置された歩兵第十八聯隊は、明治19年に吉田城址(現在の豊橋公園一帯)に移駐しました。そして明治27年には日清戦争・明治37年には日露戦争へ参戦し、その後は豊橋と中国大陸との間を往復していま した。明治39年(1906)には、陸軍第十五師団が設けられ広大な高師原や天伯原を演習用地にします。この軍隊の存在は、周辺を発展させ、兵隊の帰還における市民の熱狂的な歓迎など市民の生活と密接に関わり「軍都」としての発展要因にな りました。しかし、太平洋戦争に入った事で昭和20年(1945)6月20日に空襲を受け市街地の大半が焦土となりました。 (一)繭相場の波瀾多く、製糸家の立場は常に危険に脅かされる。 (二)問屋業としても相場の波瀾に依り安心して営業が出来ない (三)銀行は相場の高下のある繭を担保とする貸出を喜ばない (四)生繭は取引期間短く自然相場の高下を甚だしくする 上記の事から、昭和十一年「組合として乾繭実物取引」を開始します。これが、今日の銘柄清算取引認可の基礎となったと言われています。 しかし、実物取引はその受渡期限にゆとりがない 等から (一)実物取引は業者以外のものが取引する事が出来ない (二)必ず受渡せねばならぬので不必要の受渡をする事がある (三)保険繋ぎが出来ない (四)円満迅速なる大量取引が出来ない (五)生産過程の永い生糸製造業に対して綜合的な長期に亘る相場を予見せしむることが出来ない 上記理由で、実物取引より一歩進め、清算取引所設置認可を商工省に申請し、「会員組織豊橋乾繭取引所」が発足します。 第二次世界大戦が終わった昭和26年5月12日に「横浜取引所」を継承した「横浜生絲取引所」が、5月14日に「神戸生絲取引所」が発足し、生糸の取引が再開されます。そして、平成10年(1998年)10月1日、「横浜生絲取引所」は「前橋乾繭取引所」 と合併し、「横浜商品取引所」となります。乾繭取引所は「前橋乾繭取引所」以外にも「豊橋乾繭取引所」がありましたが、平成8年(1996年)10月1日、「豊橋乾繭取引所」は「名古屋繊維取引所」等と合併し、「中部商品取引所」となります。平成19年( 2007年)1月1日に縮小され、「中部商品取引所」は「大阪商品取引所」と合併し、現在は「中部大阪商品取引所」と変化していきます。 最終的に、「横浜商品取引所」では平成16年(2004年)3月に乾繭の上場を廃止し、「中部商品取引所」では平成14年(2002年)3月に乾繭の上場を廃止しました。生糸が日本の主要な輸出品でなくなるのと歩を合わせるようにその役割を終えて行きます。日 本の近代化に貢献した乾繭や生糸の先物取引について語られることはあまりありません。 注:乾繭(かんけん)とは、 蚕が作った生繭を長期保存するために乾燥させた繭の事です。以前は、原料としての乾繭と製品としての生糸とが先物取引のできる場として商品取引所に上場していました。「原材料と製品」の価格変動リスクと共に「乾繭と生糸」との価格差の変動リスクを みてヘッジする役割が大きかった為です。生糸が日本の主要な輸出品でなくなるのと歩を合わせるようにその役割を終えて行きます。 |