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参考: 「日本後紀」
延暦十五年に三河・伊勢等の国から養蚕を習得した女性を東北地方に派遣し養蚕指導を行った。


参考:豊橋・羽根井校区の民話 「お蚕さま」
蚕の卵が産み付けられた種紙は、今からおよそ千三百年前から、寒い冬の間、本宮山奥院の木箱に預けられていた。春になると、宮司の祈祷を受けて養蚕農家に配られた。
吉田で養蚕が始まったのは明治の初めだった。細谷で生まれた民造は、蚕に不思議な力を感じ、農家が生き残るには製糸しかないと考えた。そこで、六名の女工を群馬県碓氷に行かせ、製糸の技術を習わせた後、花田(今の羽根井校区)に製糸工場を造った。 また、民造の弟は、 「質の良い繭を生産するには、桑が大事」
と桑の改良に努めた。桑畑は細谷、二川方面から近隣の農家に広がり、蚕を飼う農家が増えていった。茂一も細谷で子どもの頃から桑をつんで育った。あるとき父親から「お前も製糸で身を立ててみないか」と進められ、中郷神社の近くで製糸をはじめた。茂 一の一日は、体を清め、正装して神前に正座し、祈りを捧げることから始まった。
茂一の楽しみは、繭問屋と連れだって養蚕農家を訪ねることだった。いつも足を運んだのは、谷川のせせらぎが聞こえるお美津の家だった。清々しい緑の空気がごちそうだった。ここで育った繭は、昔から質のよい絹糸になるのでたいそう尊ばれ、お上への献 上品として遣われた。茂一が
「タンポポのわた毛が飛び始めたので、ぼつぼつ卵を温めるころかと思ってな」
と話しかけると、お美津は目を細めて、
「だいじなお蚕さまだでね。わたしが種紙を半纏でおぶって卵を温めとるだよ。そろそろ卵が透きとおってきたで、そのうち、かわいい蚕が生えるぞね」
蚕が生え、はきたてが始まると、養蚕農家はにわかに忙しくなる。桑が足らなくなると、じいさまが桑問屋をかけまわって桑を集めるのだ。「蚕にゃあ、『桑だぞよ、桑だぞよ』と話しかけ、待って貰うだが、つらいぞん』 わが子のように育てた蚕が、藁で作ったまぶしの中をくぐりぬけて糸を吐きながら命がけで繭をつくる様は人の心を動かした。こうしてつくられた品質の良い繭は、皇室に献上され、後に「蚕都豊橋」と呼ばれるようになった。


参考:神宮神御衣御料所(じんぐうかんみそごりょうしょ)について
三河地方で紡がれた糸を毎年7月3日〜4日に伊良湖から船で伊勢神宮に奉納する行事です。この行事は俗に「お糸」とか「お糸船」と呼ばれていますが、正式には神御衣祭(かんみぞさい)といい、神宮において1年に一度あるいは二度、神服を新しく祭神に 奉る祭儀です。伊勢神宮では、毎年5月と10月の14日に行われ、本祭に先立ち和妙(にぎたえ=絹布)、荒妙(あらたえ=麻布)が織られ、当日は内宮等に和妙御衣、荒妙御衣として奉納されます。この祭りの原料糸となるのが、毎年お糸船等で奉納する 「赤引きの糸」です。「赤引きの糸」は「清浄な絹糸」という意味で「神宮に奉献される絹糸」のみにこの語を使うこととなっています。「お糸船」は、約1,300年前の天武天皇のころから始まり、応仁の乱で中断されていました。お糸奉献がお糸船と呼 ぶようになったのは、古くは、福江港より荷舟を借り、二日がかりで鳥羽に到着したそうです。いつの間にか世間の人がこの行事を「お糸さん」とか「お糸船」と呼ぶようになったと言われています。「お糸船」は、奉納に関わった人々の愛称だそうです。 「お糸船」の行事は、再興されてから、今年で114回目だそうです明治に入りその中断を知った田原市(旧渥美町)の渡邊熊十がその再興を志し、明治34年三河の伝統行事が復活しました。そして、伊勢神宮の神御衣祭の和妙(にぎたえ)と呼ばれる絹織物の 原料となる「生糸」を繰ります。絹糸は、清浄な糸を意味する「三河赤引糸(あかひきのいと)」と呼ばれ、神が召す絹織物の材料になります。七月三日に三キロほどの絹糸を船送する。)昭和23年頃には、養蚕家も姿を消し豊橋、新城で生糸を依頼せざるを 得なくなりました。現在では、新城の愛知東農業協同組合の皆様に依頼しています。 (田原市観光ガイド その他参照)