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参考:大林製糸の事例紹介
大林製糸は、小渕しち氏の協力で大林宇吉氏が明治21年に開業しました。明治28年宇吉は、細谷製糸工場に原料係として勤務していた経験を活かして、蒸気機関を使用して玉糸機械製糸を開発します。日清戦争景気が好機となり30年には豊橋における 「玉糸ブーム」を巻き起こします。しかし、明治33年に日清戦争好景気の終焉は製糸価格暴落を引き起こします。この価格暴落は、粗悪品を生み出し、製糸業界の倒産を招きます。三河・遠州の製糸業者は、三遠玉糸製造同業組合を設立します。その規 則は厳しく、商標の設定・製品格付け・女工の保護奨励 等 玉糸の改良に努めました。明治35年にはロシアへも輸出する程の製品改善が行なわれ、豊橋地方は「玉糸の町(全国生産の40〜50%)」として確立します。明治44年に市内花中町に移転 し操業を行いました。大正から昭和初期の最盛期には、女工だけで600人規模となります。昭和初期、玉繭不足で製糸工業の倒産が増加します。太平洋戦争が始まり、クワ畑を強制的にイモや麦等の食糧に変えられ、繭も生糸も配給制になって行きます。輸 出の完全停止となり、工場は武器をつくる軍需工場に転換して行きます。大林製糸は、従業員50人に減りパラシュートや防弾チョッキの原料を生産する操業が続けます。昭和20年豊橋は、大空襲を受け工場の9割が焼けますが、戦後玉糸の製糸が息を吹き返し、 従業員は200人程に増加します。景気回復後の昭和25年には、50人の試験による募集を行う様な会社となり「蚕都・豊橋の復興」を支えました。しかし化学繊維は製糸業を衰退させ、当然豊橋でも廃業する製糸工場が相次ぎました。大林製糸は最後まで操業を 続けた工場の一つでしたが、最後は16〜20人くらいの少人数による操業となり平成7年6月30日に機械が休止させます。


参考:「小渕しち」氏とは
母親から糸紡ぎを習い15才で女工となります。17才に結婚しますが、子供を残し、後の再婚相手・中島徳次郎氏と故郷をはなれます。最初は田原の宿で製糸を始め、二川町の宿に落ち着きます。二川時代は腕をかわれ「糸紡ぎ」を教えます。6年後には、二川 の隣村で100坪の工場まで建設します。その後、徳治朗氏の「徳」を一文字使い「糸徳製糸(いととくせいし)」と改名します。よそ者だった志ち氏は、生繭を入手でき無かった事から玉繭に目をつけ、試行錯誤の上、糸を紡ぎだすことに成功しました。志ち 氏は「玉糸(たまいと)」と名付け、工場で作り出す糸は全て玉糸を使用しました。豊橋には、次々と玉糸製糸工場ができました。そして、座繰りの自動化に奮闘した朝倉氏の功績も有り全国シェアの5割を占める様になります。その功績が認められ女性で初 めて、天皇から殊勲賞を受賞します。玉糸製糸のピークは、明治20年代から大正末期です。

参考資料
・豊橋の製糸をけん引した方々を詳細に書かれている本
「忘れえぬ蚕都豊橋 橋山 徳市 著」
「愛知県蚕糸業史」
「愛知県偉人伝」
「愛知県東三河産業功労者伝」
「尾三蚕人伝 磯谷 鋭 著」
・三河地方の絹に関する歴史を詳細に書かれている本
「豊橋蚕糸のあゆみ」
「三河 絹の道 平成4年執筆 大林 卯一良 著」
「玉糸の町豊橋 糸徳製糸 著」