戻る 次へ


木綿の縞と絣
縞と絣は、木綿文化の一端を担っていました。そして、江戸末期から庶民が木綿を自給自足するようになり、各家庭で各自の「縞帳 ・絣帳」を持つようになります。見本帳は、縞や絣をどの様にして織り出したり、糸を染色したりする方法を事細かに記入したデザイン帳です。
ー 縞 −
縞の種類は非常に多く、不規則な濃淡で作られる縞・何種類もの色糸を交織させた複雑な縞 等 分類が出来ない程に存在しました。例えば、 糸の撚りを変え絣糸のような斑点を作ったり、縮ませた糸を縞状に入れたり、織る時に糸を浮き沈みさせ縞筋を出すような変わり種もありました。 着物によくみられる縞は、経糸の紺と地糸一本置きを配置した「万筋」・二本置き交互に配置される「千筋」があります。蒲団縞は、大きな棒縞で 子持ち縞・親子縞 等 沢山の縞の名前があります。モンペ縞の多くは、色彩で茶縞・浅黄縞・鼠縞と呼称されていました。着物用には、鼠縞・玉 虫縞が多く用いられていました。男子用は、小縞が多く繊細な小縞ほど羽織や着物に用い、茶色系統の染色が行われていました。
ー 絣  ー
絣(織絣)の技術は、インドが発祥と言われています。日本へは、タイやカンボジアの絹絣が、インドネシ・ベトナムなど東南アジアを経て琉球 経由で伝来しました。日本では、法隆寺裂の中に「太子間道」「広東錦」と呼ばれる絹の経絣がありますが、裂としての伝来でした。

注:太子間道
名物裂の一つです。数色に染め分けた経糸と赤の緯糸で、平織に織った経絣の裂の文様です。広東錦とも言います。太子とは聖徳太子のことで、 法隆寺伝来の「太子間道」に似ていることから、後世に渡来したこれらの裂も広く同様によばれました。16、7世紀ごろ、中国や南方から渡来した縞織物。
注:「広東錦」
7〜8世紀の法隆寺や正倉院伝世の裂(きれ)の中に、広東錦と呼ぶ絣織が有名です。木目形や人物文が連なった多彩な絹の経絣です。


日本で絣織が飛躍的に発達するのは、江戸時代後期から明治です。「かすり」の言語の使用は、江戸時代後期になってからのようです。織り糸によっ て木綿絣・麻絣・絹絣などがあります。絣は、縞に比べて高度な織り技術が必要となります。図案に合わせ、絣計算という綿密な計算の上で、何十本 にも束ねた糸を括った後、何度も染料に浸けては絞り、地面でたたく作業を繰り返し、手作業で染色を促します。糸が美しい色に染め上がると、 投 杼機(なげひばた)という織機を使い、柄合わせをしながら縦糸・横糸の柄をヅレないように微調整しながら織り上げていきます。この交差した縦糸と 横糸の重なりや微妙なズレによって「かすれ」たような複雑で繊細な模様が生まれます。(例えば、久留米絣は柄作りから製反まで30もの工程があり ます。天然素材の素朴な風合い・計算と偶然による巧妙な美しさを持っています。)