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藍染と木綿
江戸時代は、士農工商という身分制度が存在しました。幕府は、庶民に質素倹約を求め、衣類の材料は麻と木綿、色は紺一色で華美な 染色を禁じました。この木綿の普及は、藍染が発達していく要因となり、藍という農産物の育成にもつながりました。
藍作について
藍作の起源は、明らかではありません。しかし、古くから植物染料として使用されてきました。「出雲風土記・延喜式」には、「天平時代に摺染法と蓼藍が伝来し、蓼藍を藍として各地で栽培される」 という記述があります。その後、藍は河原に自生し、庶民が自生した藍を刈り取り染色に使用するようになります。そして、綿作が広がり、木綿が庶民に普及する事により藍の自家栽培では不足となり 、藍作へと転換していきます。
藍作は、砂丘や河川流域が適していました。徳島の阿波藩(吉野川流域)では、温暖で霜がなく、肥料としての干鰯・干鱒が入手し易かった事から「阿波藍」と称し、藩政を支えていました。17世紀 以降に藍作は、全国へと広がりを見せていきます。明治初期の藍の主生産地域は、徳島・福岡・広島・岡山・鳥取・和歌山・三重・岐阜・長野・愛知・静岡・茨木・福島 等の県で絹織物や綿織物の生 産地に類似しています。しかし、良質の染色用の藍は、作付けが難しく撤退していく地域が増え、明治30年代からは藍作は減少して行きます。

藍染木綿の種類
木綿織物を大別すると、「無着色の白木綿」・「染めた糸で縞模様を織る縞木綿」・「藍、茶、黒一色の無地染め木綿」・「型染紙を使用して文様染めをする型染木綿」に分けられます。
中でも縞木綿は人気があり、様々な工夫が施されました。この縞織物と同様に人気を博したのが絣織物でした。縞織物は、先染めした二色以上の糸を使い、一定本数ごとに色分けして交互に織る事で綿 布に縞模様の柄を表現します。絣は、糸を先染めする時染める糸を部分的に括り糸で堅く縛る事で、1本の糸が何色にも色分け可能となり、織った時に特有な絣模様が現れます。よって、絣は染色や機 織に余分な手数がかかる事から縞木綿より高価でした。