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 木綿の流通
木綿取引の始まりは、生産者が「市(いち)」を立てたり、村周りの綿の取引業者へ販売したりすることでした。綿栽培地を中心に 農閑期に「糸を紡いだり・染めたり織ったり」が通常でしたが、次第に木綿織の専門業の機屋が出来ていきます。やがて、機屋の特有の技術が 開発され、ブランド名がつけられて大消費地に大量に出荷されるようになります。「太物」と呼ばれた木綿織物は、都会では専門の呉服店で売 られました。そして、江戸時代に人々の日常着が麻から木綿へ急速に切り替わりました。
木綿織物の産地として栄えた三重県松阪市周辺の農村では、ほとんどの村で農閑期の女性の「作間稼ぎ」(副業)として木綿が織られていました。 この地域の特産品であった縞木綿織は「松阪の女技」と呼ばれ、津市や鳥羽市周辺の村々でも機織が上手な事が農家に嫁ぐ女性の必須条件と伝え られています。そして、伊勢地方で生産された木綿織物は、松阪周辺を「松阪木綿」、津周辺を「伊勢木綿」、 神戸(鈴鹿市)周辺を「神戸木綿」 と呼んでいました。これらは、江戸へ出荷され「松阪木綿」の商標がつけられました。
知多半島(愛知県)で織られた生木綿(漂白加工する前の木綿)は、海路によって伊勢松阪に送られ、そこで加工を施され完成品となり、伊勢商人 の手で江戸へ送られていました。文政年間(1818年頃)知多地方の人々は、工程に工夫を凝らし独特の「晒木綿」を作り出しました。この木綿 の風合いが江戸で人気を呼び、「浴衣・手拭・下帯 等」として使用されました。同じ時期に知多木綿は、生木綿から晒木綿に変わり、松阪を経由 せずに直接江戸へ出荷されるようになりました。
尾張西部地方で生産されていた尾張縞木綿は、西陣(京都府)や結城(茨城県結城市)から技術を導入した事で尾西縞木綿の技術を確立しました。
西陣や結城から導入した技術は、「絹と木綿の交織」でした。
河内木綿は、糸が太く厚地であることが特徴となります。(暖簾 ・半天・農作業着・布団 等)また、和泉木綿は薄地で、手拭や衣服の裏地に用い られました。
兵庫県の姫路木綿は、一反につき長さ10M以上という規格(幅およそ35CM)があり、「長束木綿」と呼ばれました。その生産高は、 200万反にも達し江戸へ大量に出荷されていきます。
出雲地方では、雲州木綿と半田木綿が有名で木綿問屋が京阪地方に販売を拡販させ、藩として木綿の保護育成に力を入れていきます。
*注
正徳2年(1712)に刊行された『 和漢三才図会 わかんさんさいずえ 』に、木綿織物の順位を上から伊勢松阪、河内・摂津(大阪府)、三河・尾張 (愛知県)、紀伊(和歌山県)、和泉(大阪府)、播磨・淡路(兵庫県)と順序づけられていました。