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穂積町史 通史編 下巻(近・現代)  昭和54年3月31日 刊行  より

祖父江の竹筬歯

 本町祖父江の竹筬歯は、古くからその名を全国に知られ、絹織物には絶対欠かせない貴重なものとされている。
 山間部で生育した硬い材質の良い竹を選び製造する。筬の工法は時代に即應し大量生産により、製品のコストダウン能率化を図ろうとして、製法の機械化を長年研究されてきたが、結局人の手によって作った物にしくはないという事になり、熊本県阿蘇から送られてきた製品の竹を、今もなお一枚一枚丹念に、たて二ツ割にして粗挽きをし、竹の幅を決め、二番引きをし、次いで竹の表皮を剥いで薄い竹べらを作り、漸く(ようやく)一枚の長い竹べらが出来上がる。この薄い竹べらを中引きをし、最後に上げ引きして、7回の工程を経て1枚の竹筬歯が出来上がる。これを一定の形に組み合わせ、種油をぬって、焼き付けて場を作り、出来上がった竹べらを、一枚一枚機械で編み、適当の幅の筬歯に仕上げる。
 竹筬歯を製作する一人前の技術者になるには、少なくとも一〇カ年の年季がいると言う。現在の社会状勢では、この伝統技術を受け継ぐ若い後継者が全くいない。
 祖父江に竹筬歯の製造が始まったのは、記録が無いので、はっきりとしないが、土地の古老の言を総合すると、今より凡そ一二〇年程前の寛永五・六年に始まったのではないだろうかと云う。竹筬歯がなぜ祖父江のあたりに、広く家内工業として農家の副業に盛んになったかと言うと、この地方は所謂水場地帯で、来る年も来る年も水害になやまされ、水耕は毎年冠水のため水腐して米の収穫はなく、それも年々の不作続きで、百姓の生活は食うに食なく、見るもあわれであった。見るに見兼ねたこの土地の有力者であった栗山拓次郎は、若い頃竹筬歯製法の技術を身につけ(何処で習い覚えて来たかはよくわからないが)地元の農民救済のため、農業の副業として広く農民の子弟を集め、竹筬歯製造の技術を習得させたのが、そもそもの始まりだと伝えている。これが年を経て祖父江特産の竹筬歯製造となったものと言う。明治初年頃は織物の産地として知られた関東の足利、北陸の福井、九州の久留米、四国の愛媛の各地方では竹筬歯を自分で作って、自給自足のかたちで織物を業としていたが、ここに目をつけ、竹筬歯を専門に製造し、これを織物の盛んな地方へ売り込み、販路を開拓した。明治一六年竹筬歯製造の農家が集まって「祖父江竹筬組合」を設立して益々販路の拡張に努め、悠々前途有望な家内工業として発達する糸口が開けた。
何分堅い竹の肉をはいで皮を削り、何回もの工程を経て薄い竹べらを作る。長さ七、五cm〜一〇cm、暑さは0.0五mm〜0.5mm位の、きわめて薄く、そりも、曲りも、凹凸も角もない滑らかな竹べらを一枚の羽として仕上げてゆく、極めて繊細な技術と根気を必要とした。その羽を一枚一枚編み上げて、必要に応じて、幅の少ないものは三cmから、幅の広いものは一m〜三mの大きな筬歯として製品化されていく。地元山麓付近の良質の竹材も段々品薄になるにつれて、明治末頃から九州産竹材を主として使用するようになり、現在は熊本県阿蘇郡より、竹筬歯半製品とした竹材を移入して専らそれを使用している。
 第一次世界大戦の終わった大正七・八年頃は非常な勢いで需要が増大し、斬業が最も隆盛をきわめた。祖父江をはじめとして、本巣郡・稲葉郡・安八郡内にも広がり、竹筬歯製造を、専業又は副業として生計を立てていた所謂竹筬歯組合員の戸数は一二〇戸にも達し、年間1千万羽の生産を挙げ、祖父江竹筬歯は全国的に其の名を知られ、販売された。