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穂積町史 通史編 下巻(近・現代)  昭和54年3月31日 刊行  より

栗山 拓治朗・栗山 頼資の顕彰


 その当時竹筬歯製造の先駆者でもある栗山拓治朗の恩に報いようと、大正七年九月、観音堂前に片岡孫一・豊田為三郎・田中喜一郎・平塚栄郎・豊田佐馬治 等が建設発起人となり、門弟の久保田善六・近藤綱吉・森貞作・栗山寅之助・広瀬光基・平塚定雄・森伊予吉・佐藤曽衛・谷原利三郎 等の有志によって立派な顕彰碑を建立した。続いて斬業の最盛期時代でもあった関係で、竹筬歯製造技術の普及と販売に大きな功績のあった栗山頼資の顕頒記念碑を奥田惣太郎・豊田佐馬治・藤島貞一・平塚栄助・田中喜一郎・堀原作・栗山信路・水野庄作・水野清市・豊田忠市・伊藤才市 等一一人が発起人となり、八三人の同業者が有志者となって立派に建立した。

竹筬歯生産の衰退

 大正一〇年頃より金筬歯が出廻り、非常な勢いで全国に販路を拡げたので、コストの高い竹筬歯は非常な打撃を受け、売り上げが極度に減少した。わずかに絹織物特産地向けとしての需要だけは相当量に上がっていたので、昭和一四年には岐阜県筬歯共販組合を設立し、販路の拡張に努めていた処、たまたま第二次世界大戦の拡大によって、戦力増強のためあらゆる面で、国家の厳しい統制下に入り、昭和一六年に至って企業合理化の名のもとに、共同販売組合が組織されるに至った。
 第二次世界大戦終了後は逐次生産も伸び、需要も拡大し、昭和二二年実の筬羽株式会社を設立して以来急送に発展し、生産も伸長し、外国向け輸出も急速に増加の一途を辿り、非常に明るい見通しとなって来たので、昭和二五年至り、社名を日本竹筬株式会社と変更し、社運も発展した。
 印度・パキスタン・比島・中国(台湾)・ベトナム・朝鮮・沖縄と輸出も伸び、最盛期には月産2万枚にも達したが、朝鮮動乱終結を期として、輸出も逐次下向きの一途を辿り、さしも盛大であった竹筬製造も昔日の面影はなくなり、現在では県下に一六人の職人を残すのみとなった。そのうち祖父江では一一人の業者によって製造され、生産も月二三〇万羽位、製品として大体3千枚程度で、取引先も鹿児島・奄美大島・米子・倉敷と殆ど限定化してしまった。全国生産の八〇%を祖父江竹筬歯で占めている現状である。


注:現状(2016年)、竹筬に関しての保存技術は「日本竹筬研究会」が受け継いでいます。