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宮  崎


薩 摩 絣


薩摩上布などの技術を紬に応用して出来たもので、日本における綿織物の中で最高の格を持つものと言われています。かつては、 琉球絣の流れをくむ素材でしたが、現在はむしろ大島紬の気分を木綿で味わえるというおしゃれ着として作られています。その為、大島紬や結城紬のきものを着つくした人が、最後に求めるものといわれる程の贅沢さと品格を持ち、最高の綿織 物としての精緻を持っています。
薩摩絣の起源は不明ですが、慶長一四(一六〇九)年に薩摩藩主の島津義久が琉球を攻めた折の貢物の中に絣があった事から、以降は献上品として用いられたと言われています。その頃は、琉球で作られ、薩摩藩を通して販売されていた事から 「薩摩絣」と命名されたそうで。(別名 琉球絣)その後、明治になって失職した武士の為に、鹿児島市内に薩摩絣の授産場が出来き、相当な生産高を誇っていたとされています。庶民の着物として人気の高かった薩摩絣ですが、「綿織物」と いうことで戦後は需要も少なくなりました。しかし最近になりその良さが見直され復活しました。薩摩絣は、紡績糸八〇蕃双糸という細い糸を使い、織締法で絣を紡ぎます。 大島紬とほぼ同じ工程で作られ、大島紬と薩摩絣との違いは、絹織物 と綿織物という事ですが、その木綿だけの持つ独特な雰囲気があります。「織り」は、絹糸と違い非常にすべりが悪く、細手の木綿糸で単に力を入れても切れてしまう事から織り手は高度な技術と熟練した勘を必要とします。

ー注ー
琉球古典紬
琉球織物の研究家だった故秋山常磐氏によって始められた紬で、古くから琉球に伝わる紬を復元しています。素朴な絣文様を時代に合う配色で表現した色あいは、沖縄の風土を表現する美しさがあります。秋山氏は福岡県の出身で、明治四二年、 沖縄に渡り教職に携わった後に那覇で織物業を学びました。 沖縄各地に分散していた伝統織物を集約して一つの企業として運営し、沖縄に初の近代染色や動力織機を導入して、伝統工芸を織物産業にまで育てました。その後、昭和19年に強制 疎開により沖縄を離れ、戦後宮崎で紬を織り始め、琉球の織物の伝統をふまえた琉球古典紬を作りあげました。 その後、息子の真和氏に受け継がれています。

ー注 ー
綾の手紬
宮崎県綾町で、沖縄で学んだ織物の知識を元に、秋山眞和氏が始めた全ての工程(養蚕から織りまで)が手作業の紬です。赤、青、黄の三色のきれいなグラデーションが生まれる事が特徴です。全て同じ色ではない糸が紡がれることによって味 のある風合いを作り出しています。