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広  島


備 後 絣


紺地に白い絣模様が緻密に織られた素朴さのある木綿織物です。福山地方は、古くから綿の産地でした。江戸時代には白木綿、浅葱木綿、縞木綿などが織られていました。特に縞木綿は藩の保護をうけ、神辺縞または福山縞として広く全国に知られていました。
江戸末期の嘉永六(1853)年には富田久三郎が、竹の皮を用い 手くくりで糸を染める井桁絣を織り出しました。(この有地絣・谷迫絣と呼ばれた織物が、現在の備後絣です。)文久元(1861)年頃から、輸入の紡績糸で織られるようになり、文久絣と名称を変えて大阪地方に出荷さ れていきます。備後絣と名称を変えたのは、明治初年と言われています。この頃から備後絣は販路を拡大し、同時に工程も機械化されました。また、久留米の技法を導入して絵絣の生産も開始され、昭和三五年頃には日 本最大の絣産地となりました。その後、絣の需要の減少とともに生産量も減少しています。