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・「法造り」には、「紙裁ち包丁」を用いること。
・「紙つけ」には、柿渋を用いること。
・「枯し」は、「自然枯し」又は「室枯し」によること。
・ 型彫りは、「錐彫り」、「道具彫り」、「突彫り」、「引彫り」又は「縞彫り」によること。
・「糸入れ」を行う場合は、生糸を用いること。
・ 型紙に用いる紙は、手漉のコウゾ紙、ミツマタ紙若しくはガンピ紙又はこれらと同等の材質を有するものとすること。
・柿渋は、4年以上寝かしたものとすること。

― 歴 史 ―
型染めは、奈良時代前期に大陸から日本に伝わり、江戸時代に小紋染め 等に広く使用されるようになったと言われています。染色用具として用いられる型紙(伊勢型紙)の起源は、歴史的に史料・伝承がなく明確ではありません。 しかし、伝説・伝承としては残っているようです。
例1:神亀年間(724〜728・奈良時代)に「孫七」という人が型紙業を始めた。
例2:鈴鹿市寺家町にある子安観音寺の不断桜の虫食い葉を見て、興味を持った久太夫が虫食い葉を紙に当てて彫った。
例3:型売株仲間について書かれた「形売共年数暦扣帳」
延暦年中(平安時代)に「白子地方に型売り四人あり」と記されています。この事から室町時代末期には、「白子型」と呼ばれる型が存在し、型紙はすでに全国的に流布していたと伝えられています。(「職人尽絵 狩野吉信」に型 紙を使用している染職人が描かれているそうです。) 江戸時代に入り、白子村・寺家村(鈴鹿市)が紀州藩に編入されました。その保護政策が、型彫り・型売行商を発達させ、型売りの「株仲間」という組合的な組織も形成され発展していきました。また、白子港が江戸に木綿を積み出 す商業港で、奈良・京都など内陸へ海産物を運ぶ要所であった為、全国的な型紙販売の組織を形成できたと言われています。強力な専売体制は、明治まで続きますが彫りの技術は京都など全国各地に分散しました。 地紙(渋紙)の生産は、現在でも白子・寺家地区で行われています。地紙製造の際の「室入れ」は明治時代に考案され、大正十年には型紙に絹の網を漆で貼り付けて補強する「紗張り」という技法が考案され、「糸入れ」技法にとっ て代わります。現在は、きもの離れや手彫りに代わる写真型の技術導入により伊勢型紙の生産は激減しています。

注:江戸小紋について −
型染めで、中ぶりの文様を中形と呼び、後に浴衣の別称となりました。そして、小さい文様を「小紋」・大きい文様を「大紋」と呼びます。 小紋は、最初は武士の裃の文様として発展し、各藩固有の小紋が定着していきます。(将軍家→御召十、加賀前田家→菊菱、鍋島家→胡麻)江戸時代、武家の独占であった小紋柄は、元禄の頃から次第に庶民の間に広がった事から様 々な柄が生み出され、江戸小紋の最盛期となり、彫りと染めの技術の完成度へと発展します。

注:伊勢型紙と伊勢形紙の字の違い
「形屋」「形売」「形彫」など「形」の字が使用されています。江戸時代紀州藩がカタ紙売りに与えた鑑札にも「形」の字が用いられています。起源としては、「形」であるようです。大正時代から昭和時代にかけての文献では、「形」と 「型」が混在し、この時代から「型」の字が使用されて来たと言われています。
「伊勢カタ紙」とは、着物や浴衣の図柄を染めるために用いられる道具で、着物や浴衣の形・図柄を作り出すための型紙です。昭和に入ると「カタ」の字が各団体や機関への登録名称として使用されるようになり、伊勢形紙協同組合、伊勢 型紙彫刻組合など、各団体が各々「カタ」の字を用いるようになったそうです。昭和30年に文化庁が重要無形文化財技術保持者を認定した折に「型」の字を用いた為、文化や教育関係の分野では「伊勢型紙」の表記となりました。そして、 昭和58年に当時の通産省が伝統的工芸用具の指定を行った際に「形」の文字を用いたため、産業の分野では主に「伊勢形紙」の表記となりました。 平成20年10月、業界の振興をめざして関係団体により「伊勢型紙産地協議会」が設立され、振興策の一つとして特許庁に地域団体商標(地域ブランド)として登録することになりました。平成21年8月に商標は登録され、以後は「伊勢型紙」 で統一して表記することになりました。市としても固有名詞などで使われる場合や、伝統的工芸用具の指定名称を指す場合を除き、原則「伊勢型紙」と記すようです。