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知多木綿(ちたもめん)

江戸初期の慶長年間(1596年〜1615年)に江戸送りが始まったと言われます。初期には生白(きじろ)木綿として生産され伊勢に送られて「伊勢晒(さらし)」とか 「松坂晒」として江戸に送られたといいます。その後、江戸中期の天明年間(1781年〜1789年)に岡田村の中嶋 七右衛門らが晒技術を導入して以来、「知多晒」 としての名声が高まり、江戸送りします。
耕す土地は狭く、副業もわずかであった知多の村々では、糸車を回して糸を紡ぎ、ハタゴでの機織りは、子女衆の大切な仕事でした。また、家々では 自家用に「家織り 」と呼ばれる紺を 主とした縞木綿も織られました。明治中期に、岡田村の竹内虎王(とらおう)が自動織機を発明し、生産向上が図られましたが、豊田佐吉の自動織機の発 明と普及によって衰退します。そして、知多・松坂・泉州が日本での三大綿織物生産地となり、機械 の自動化で高級、高品質の綿布が大量生産さ れました。しかし、現 在では主力生産地は、アジア諸国に移り日本各地の生産地は 衰退しています。


三河木綿(みかわもめん)

延暦18年幡豆郡天竺村(今の愛知県西尾市)に漂着した、崑崙(コンロン)人の綿種は高温地綿種であったため日本では育ちませんでした。我が国の綿業の移植は、15世紀中頃に 明国綿種が、朝鮮経由で改めて輸入され中部地区以西に普及するようになります。この綿種が三河地方に伝わり、栽培生産され商品化されます。
国産木綿が初めて文献に見えるのは、永正7年興福寺大乗院に残っている「永生年中記」に「三川木綿」と記されています。三河産の木綿が商品として出回っていました。文献によると
 『三河』 永正7年(1510)
 『九州』 弘治年間(1555〜1557)
 『近畿4国の河内・摂津・泉・播磨』 天正年間(1573〜1591)
 『武蔵』 天正8年(1580)
 『大和』 天正16年(1588)
 『甲州』 文禄3年(1564)
 『土佐』 文禄4年(1595)
三河が、木綿産業の最初に定着発展した土地でした。
17世紀までは三河木綿産地は、西三河の矢作川流域地帯が中心で、蒲郡地方はそれに次ぐ生産地で、製品は白木綿が主でした。 天下平定の江戸時代から「綿耕作・糸紡ぎ・機織り・ 木綿販売」が分業して各々が機業組織化されて、最大基幹産業として地域経済を担っていました。

「蒲郡地方の綿作」
綿作は、畑・堤防・散田(課税外荒廃地)等で栽培されていそうです。温暖な土地で稲作にも適し、常に灌漑不足に悩まされていた村では、最適作物として戦国時代から多く栽培され自 給自足されていたようです。江戸中期から木綿製品の需要増で価値観が上がり増産されるようになります。綿栽培は、肥料に費用がかかりますが、現金収入の有力な手段で、当時は稲作 より有利といわれ、綿作は表作として盛んに行われ裏作は麦畑として利用されました。最も古い記録は、寛文7年の形原「一色村木綿田三割引帳」です。かつては藍染めが主流でしたが、 最近では赤や黄色など多くの色が使われるようになっており、デザインの幅も広がっています。